このページについて
このページはその試し読みとして、冒頭から文庫本レイアウト換算で50ページ程度を公開していくうちの最初のものになります。コミケの前日まで毎日更新していく予定です。よろしければお付き合いいただき、当日もぜひ本誌を手に取っていただければと思います(ダイレクトマーケティング)。
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「皇千羽鶴の消失」内容紹介ツイート
表紙
一行あらすじ
皇千羽鶴の消失
領火の研究室。
「じゃあ次の質問ね」
椅子に腰掛けて向かい合った二人のうち、領火の方が問いかける。
「恋人がほしいと思ったことは?」
「……………………」
もう片方、千羽鶴はその問いを聞いてスッと表情を失った。
領火は真剣そのもので、
「…………」
手にしているバインダーにペンを載せたまま、視線は千羽鶴の眉間あたりにじっと集中させている。シャッターチャンスを狙うカメラマンのように、わずかな変化も見逃さないという意志がちらつく瞳。
張り詰めた冷たいだけの時間が過ぎて、根負けたように千羽鶴が視線を逸らした。
続けて、
「……いる。から、ない。と、答えておく」
小さく途切れ途切れに答えた。
領火は数秒だけその様子を眺めた後、
「なるほど」
紙にペンを走らせる。千羽鶴からは何を書かれているのか見えないが、その手先をつい目で追ってしまう。
書き終えた領火は、不意にからっと笑い、
「ちょっと面白かったからこの方向で行こっか!」
「いや」
即答で拒否する。
「えー。協力してくれるって言ったのは千羽鶴ちゃんなのに」
「内容によると言ったはず」
「じゃあお願い! あと二つだけ! 絶対に役立つから! お願い!」
「二つというところが怪しい。欲が出てるから一つでもダメ」
「お願い! この世界の未来のために!」
「セクハラと世界の存亡が天秤にかかってるように聞こえる表現はやめて」
頭を下げて拝み倒していた領火は、はたと気づいたように顔を上げる。あさっての方向を見て「んーと」何かを考えているように見える仕草。
はっと何かに気づき、深刻な声音で言う。
「すごいよ。セクハラと世界の存亡が両天秤だよ……かつてない状況だね」
「…………本当に?」
「本当だよ」
領火は椅子の位置と姿勢を整え、背を伸ばし、千羽鶴の方へ前のめりになる。
「私がしようとしてるのは、フェノメノンの蒸着を経て世界になった人物の意識系統へのアクセス。フェノメノンの中がどれくらい無理が通れば道理が引っ込む世界だったか、千羽鶴ちゃんが一番知ってるでしょ? そんな世界が蒸着している現在は、いまいる世界を形成するレイヤーが前例のない状態になってる。私はちょっと詳しいから慎重になら触っても大丈夫だけど、やろうとしてることは大きなリスクが伴ってることには変わりがない。少しでもさじ加減を間違えたら、今度こそ原初ちゃんの意識は消えちゃうのかもしれないし、この世界の構成がどうなるのかもわからないの。今でこそこの《GensyoBox》で——『こんにちわ!』——こんにちは! こうやって簡単な意思疎通は出来るけど、私はあの人格そのものを取り出さなきゃいけない。だから——」
息を吸って、
「千羽鶴ちゃんが恋人さんと結婚して何歳までに何人くらい家族を作りたいと思うかどうかは絶対に知りたいところなの!」
「ばかなの?」
「できれば男の子と女の子どっちがほしいかも知りたいね!」
「私のプライベートはどこ?」
「千羽鶴ちゃんが答えないならつばめちゃんに聞くよ?」
「一向に構わないけど」
「……だめ! おもしろ……正確なデータが取れないから!」
「どーん! ダウト!」
ごちゃついた押し問答がいくらか続き、
「じゃあこれは諦める。二つまでって約束だからもう一つは答えてね」
「成立してない約束を持ち出しても無駄」
「まあまあ。真面目な話だから」
言うと、領火は手にしていた紙とペンを机に置く。
そうしてから千羽鶴ともう一度向かいあって、静かに問いを投げかける。
「結局、千羽鶴ちゃんの進路はどうなったの?」
にこやかに余裕を持って。
本当に実験の役に立つのかはさておいて、一人対一人の会話を始めたいといった様相の領火。それを察して、きっかり五秒ほどをかけて判断する。
千羽鶴は、自分の頬に手を当てて変に緊張していないかを確かめる。こわばってもいない、にやけたりもしていないことがわかる。そうした予兆も感じない。
ココロの準備よし。小さく息を吸ってから、
「……決まった。こないだ」
「わ。すごいね! よかった!」
ぱちぱちと手を鳴らす領火。
「で、何に決めたの?」
「……面白くないけど」
「べつに面白くなくていいよ」
う、と目を眇めてしまう千羽鶴。もう一度自分の頬を片手で覆いながら床を見て、壁を見て、領火の半円を描いている口元を見た。
……ずるい。
真幌はちゃんと大人をやっているけど、領火は素で大人をやっている。たまにこういう事故で動揺させられてしまう。千羽鶴が知る中では一番ずるい大人。
「あー……」
「ん?」
ごく自然に詰めてくる領火。やはりあのアーヤの姉なんだなと初めて気付かされる。遠いつながりかもしれないけど、領火は擬似的な母親と捉えることもできる。そんなことが頭をよぎり、千羽鶴は妙な混乱に陥ってしまう。進路希望の報告も親子としての通過儀礼のひとつ? わからない。
千羽鶴は頭を振る。いやいや、と余計な考えを振り払う。
……よし。
自分でも説得力があって、誰に言っても恥ずかしくない、自分らしい目標だと思えている。だけど、実際に口に出そうとすると気恥ずかしさが強い。知らない人に道を尋ねるような、道へ落としたものに気づかない人へ知らせるときのような、そんな緊張感。先行きのわからない不安。
思っていることを言葉にするだけ。
千羽鶴は息をひとつ吸って、
「私は——」
1
「——いま考えなきゃだめですか?」
「当然。遅すぎるくらいだ」
総務省情報管理庁付属学園高等部、その生徒指導室。
机二つを挟んで向かい合っている二人は、東雲真幌、逢瀬千羽鶴の二人。
「大体なぁ。おまえの転入は特例だったから進路を決めるのは遅らせても構わないと言ったが、本当にここまで引き延ばすやつがあるか?」
「まだ普通の女子高生をしてたいので……」
「もう十分やっただろう。そのための引き延ばしだし、腹を決めるときが来たと思え」
真幌は千羽鶴の机に置かれた書類をボールペンでカンカン叩く。その書類には『進路希望調査票』と書かれており、
「二年生のガブリエラは既に第三希望までちゃんと埋めてる」
「……」
「実際に困るのは私じゃない。おまえだ、千羽鶴。東京から実家に帰るのか? 姉に養ってもらうつもりか? 女子高生を楽しんだだけで十分だと言うのならそれで構わないが、一時は情報管理庁の長官を務めていた人材だ。私としては帰ってほしくはないし——」
「その頃の私は関係ありません」
教師である真幌の言葉をぴしゃりと遮る。
真幌は語気を緩めない。
「それならそれでいい。花屋にでも飯屋にでもキャリアウーマンにでも何にでもなるといい、おまえなら何をやってもそこそこ上手くやれると私は思う」
「……」
「私に用意できる仕事を振ってやってもいい……だが、それをするにしても」
目を見て言う。
「ちゃんとおまえが決めろ。わかったな」
▶
真幌のことは尊敬している。素直にすごい人だと思うし、褒めちぎられたことはちゃんと嬉しい。千羽鶴が見つけられた、数少ない信頼できる大人。
だけど、
……わからないものはわからない。
寮の自室で進路希望調査票と向き合う。だけど何も浮かんでこない。眺めていれば何かが浮かぶ訳ではないともわかっている。
……何をすればいいのかわからない?
帰宅して制服姿のまま、机にそれを置いて、着席して考えること三十分ほど。何となく部屋の片付けをしてみたり、お茶を入れてみたり、お菓子をかじってみたりしていた。進捗は特になし。
……わからない。
お茶をすすりながら思う。どうしてこのままではいけないのだろう。社会の役に立たなくてもいい人材が一人や二人はいなくてもいいんじゃないか。私は長官時代の給(検閲されました)しばらくは困らない、と千羽鶴は思う。
自分は十分に働いていた。国家の存亡に関わる事案への対処に、なぜか齢十五歳ほどの一般的な少女だった自分は、長官として組織を動かして対応していた。その間にどれくらいピンチが訪れ、自分が率先して対処しただろうか? 功績を考えれば島のひとつや二つは安いもののはず。
……完全に出来レースだけど。
それに、昔のことはどうでもいい。自分とは関係のないことだ。
いまは『普通の女子高生』。皇千羽鶴ではなく、逢瀬千羽鶴。
これからは逢瀬千羽鶴として生きていくと、ずっと前に決めていた。
……どうやって?
それらしい情報を検索したり回したりしてみる。『やりたいことをやれば幸せになれます』『適性結果は芸術家・思想家です』『これからは手に職をつける時代です』『ぬいぐるみの作り方』『縫製技術』『ハリネズミの生態』『生地の販売』……。
はっと気づけば三十分も経っている。また時間を無駄にしてしまっていた。
……やりたいことか。
ハマっているのはぬいぐるみ作り。手作りアーティストにでもなればいいのだろうか? 真幌が言っていたことを思えば、何だかんだでそこそこ上手くやれるのかもしれない。けど、自分が作ったぬいぐるみに経済価値を見出す人なんているのだろうか。わからない。とんでもなく険しい道のりであることは確かだ。
とりあえず却下して、もうひとつ。いまやりたいこと。
やらなければいけないこと。
「……行こう」
千羽鶴は、自室である103号室を出て上の階に向かう。
▶
「あっ、来た来た~。用事は済んだの?」
「うん。終わった」
ウソだった。
千羽鶴がやって来たのはつばめの部屋。つばめは制服姿でノートパソコンに向かっており、傍らにはスマホとアナログ手帳。それには『ネイエ・インストゥルメンツ』に所属するマネージャーとしてのスケジュールが書き込まれていることを千羽鶴は知っている。
後ろ手に扉を閉めてから、つばめの向かい側に座った。
「結局なんだったの? 東雲先生に呼び出されたなんて」
「心配ない。私が卒業したらどうなるかについて聞いた」
つばめはノートパソコンを閉じ、両手を膝の上に落ち着けた。少し考えてから、
「あっ、そっか。ちーちゃんは転入自体が特例だったからちょっと事情が違うんだよね」
「そう。天下り特権」
ニヤリと笑って見せる。
「天下り特権……なんかすごいね!」
ぱっと笑うつばめ。みやび辺りなら「お主も悪よのう」とか完璧な対応をしてくれそうなものだけど、つばめにそれを求めるのはまだ難しいようだった。
「で、天下りってなぁに?」
「……公務員の出世競争で負けて仕事を失った人が、斡旋を受けて別の仕事に再就職すること。一般的な認識ではずるい、黒い、癒着を招くとして否定的に見られている」
「ちーちゃんは負けたの? 長官さんなのに?」
「……負けてない」
「ふーん」
少し間があり、
「卒業したらどうするか決まったんだ?」
無邪気に問い詰めてくる。予想の範囲内ではあったので、千羽鶴は平静を乱さず、
「これから決める。けど、一貫校だからそのまま進学するかも」
「そっかぁ。専攻が決まれば大丈夫って感じ?」
「……うん」
「何か希望はあるの?」
「……一応。まだ決めきれてないけど」
「そっかー……」
くるくるとボールペンを弄ぶつばめ。千羽鶴にはわかる。
……心配されている。
逢瀬千羽鶴として出会った頃は、双子の姉妹として過ごすと決まった後も、しばらくは知りあい同士・友人同士のような関係性でいた。いつしかお互いに慣れもあり、今のようになんだか姉らしく妹の心配をしたりする。
千羽鶴としてはつばめも同じように心配だったりする。
「お姉ちゃんは、進学しないんだっけ」
「え? そうだね、このまま事務所の方で働くよ。もう早希さんからいろいろ仕事を教えてもらってるし、だんだん規模も大きくなってきてるし……劇場のバイトも続けたいけど」
困ったように眉尻を下げて、
「ちゃんと雇ってもらえるようになったら、カフェは辞めなきゃだめだよね。とっても寂しいけど……」
あははと笑い、「お茶淹れてくるね」と席を立つつばめ。
自分を横切ってキッチンに向かうつばめを横目に、そうか、と千羽鶴は考える。あのカフェも一区切りになる。
元は五人でやっていくつもりだったらしい神楽坂トライナリー劇場のカフェは、千羽鶴もバイトで参加するようになっていた。特別攻撃隊としての仕事が落ち着いた直後はみんな揃っていたことが多かったが、
……だんだん私が出ずっぱりになってた。
言わずもがな、神楽とつばめはそれぞれの仕事に。アーヤは卒業に向けて、みやびはフランスとか、ガブリエラは新しくやりたいことが出来たとかで用を持つのが多くなっていた。千羽鶴だけが安定してカフェに入ることが出来る日が多くなり、自然と看板娘の地位をどーんしたり。
……本当に、卒業した後はどうなるんだろう?
「ちーちゃん、はいお茶」
「あ。……ありがと」
お姉ちゃんの給仕役は久しぶりに見たかも、と静かに感慨。つばめが着席してから手を付ける。美味しい。
そして、ふと思いつく。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「私が卒業したら、神楽坂の劇場で働き続けられると思う?」
これはなかなかいい気がした。真幌に確認してみないことにはわからないけど、いま業務を支えているトライナリーのメンバーは、残念ながらずっと働き続けられる訳ではない。映画館として維持するためのスタッフも足りなくなるだろう。自分もそれは嫌だし、それを支えるのはナイスアイデアだと思える。
つばめはぱぁっと笑う。
「いいかもね! ちーちゃんはいろいろ仕事できるし、私もいずれは辞めちゃうだろうし……みんなもわからないし……うん……」
言いながら顔を伏せ、静かになっていくつばめ。「……?」千羽鶴がつばめの顔を覗き込むようにすると、
「あっ、違うの。なんか、そういう時期なんだな、って思っちゃって」
両方の手のひらをぱたぱたと振って「違うよ」アピール。そうしてから、つばめはその手を膝の上に置く。
「私と神楽ちゃんが進学したら、みやびさんとガブちゃんとちーちゃんとで一緒にまだ学生してられるけど……アーヤさんは実家に帰っちゃうだろうし。神楽ちゃんは進学に興味なさそうだし、私は早く一人前になりたいし……」
「……」
「寂しいね。けど、みんなやりたいことに向かって動いてるわけだし」
つばめは紅茶に砂糖を振りかける。ティースプーンで軽くかき混ぜながら、
「ほんとにいろいろあったけど、楽しかったなぁ」
「……ごめん」
「? なんで謝るの?」
「なんでもない」
咄嗟に口を突いて出てしまったけど、双子になる前のこと——東京ドームでのあれこれ以前——は言いっこなしという暗黙の了解があった。千羽鶴は紅茶で口を潤してから、
「劇場の仕事は東雲先生に確認してみる。本題に行きたい」
「あっ、そうだね。早く進めなきゃ」
やりたいこと、やるべきことがある。
つばめは手帳を取り出してぱらぱらとページをめくり、
「えーっと、まずは当日の予定と場所取りね。これは大丈夫でした!」
十二月のページを千羽鶴に見せつける。年末に向かうほど書き込みが多くなっているが、月の頭、六日には星印が打たれていた。
十二月六日。その日に行われるのは、
「神楽ちゃんの誕生日会! 神楽坂トライナリー劇場を貸しきって実行できることになりましたー!」
「ど——」
リアクションの直前、電話が鳴り響く。つばめのスマホへの着信。
「……ん」
「うわぁごめんね! ごめんね! ちょっと出てくる!」
つばめはスマホを持って部屋を飛び出していく。マネージャーの仕事を始めてからそこそこ経つはずだけど、まだ慌ただしさの化身みたいな様子がちらほら見て取れる。
……早希さんとどんな風に仕事してるんだろう。
直接会ったことはないが、つばめや神楽から聞くイメージとあまりに対照的すぎて心配になってくる。卒業したらすぐ正式に雇ってもらえるそうだけど、果たして本当に平気なのだろうか。心配事は絶えない。
……でも、お姉ちゃんは自分よりずっと先にいる。
逢瀬千羽鶴とはモラトリアムそのものに近い、と自分自身で考えているところがある。生まれたときからそうだったし、ずっとそうして過ごしてきていたから、これからもそうなのかもしれないと予感してしまう。お姉ちゃんはどんどん遠ざかっていくような感覚があるけど、物理的に離れてしまうわけではない。ツアーで全国を回るようにでもなれば話は別かもしれないけど。
千羽鶴は紅茶を飲む。
……進路希望、出さないとダメなんだろうか。
考え込んだとき、
「ちーちゃん」
いつの間にかつばめが後ろにいる。不意を突かれすぎて紅茶が逆流しそうになったが、なんとか喉元で取り留めた。
つばめは何だか参ってしまったような様子で、千羽鶴のことを一度は呼んだものの、特に言葉を続けるでもなく元の席へ戻っていく。ここまで悲しそうな様子は、チケットが落選したとかでもなければ見ることが出来なさそう。
「ちーちゃん……」
「何……?」
あまりにもタイミングが良すぎるので、もしかしたら……と予感する。逢瀬つばめなら芸術的にフラグを回収しかねないと経験が言っている。千羽鶴は心構えを済ませたが、
「東雲先生が困ってるって」
「え?」
「お父さんに連絡したって」
「……ん?」
「まずは私から話してって」
「……」
「ちーちゃん?」
「はい」
つばめは怒っていない。この姉は本当に怒らないので、強めに当たられるようなことはまずない。ただ淡々と、千羽鶴の罪悪感につばめ自身の困惑や悲愴感を直接塗り込んでくるような、そんな語り口。
「困ってたなら私に相談してほしかったな……」
「いや、その、進路の話はさっきで……」
「そうなの? でも、部屋に入ってきたとき、用事は済んだって……」
「……」
豪雨のなか道端に捨てられた子犬のような、あまりにも可哀そうなつばめ。千羽鶴は軽く取り乱してしまいそうで、しかしそうすることも許されない。
「とりあえずね? お姉ちゃんは、お姉ちゃんらしくしないと……って……」
「……?」
「思うからね……ちーちゃんには、宿題を出します」
つばめはそう言って、手帳に何かを書き込んだ。そして千羽鶴の目の前に、真幌が進路調査票を差し出したときのように、スッとその手帳を差し出す。
事ここに至って、ようやく千羽鶴は自分が大変なことをしたのだと自覚した。
つばめは文面から読み取れる内容を音読する。
「ちーちゃんは、自分の進路希望が決まって東雲先生に報告できない限りは、神楽ちゃんの誕生日会には出席できません」
一息吸って、
「劇場を会場として使わせてもらってるのに……無視してパーティーだけには出るなんて出来ないもんね……ちーちゃん……」
つばめは、千羽鶴が思っていたよりずっと大人の世界を学んでいた。
▶
パステルブルーの小洒落た扉を開くと、千羽鶴は慣れた手順でオーダーを行い、いつもと同じ席へ腰を落ち着けた。コートを脱いで制服姿になり、手袋を外し、目当てのものがやって来るのをぼんやりと待つ。
……ここは『好き』。
少し待っている間に、勝手に仲良くなれたと認識している一匹がやって来る。店員さんもそんな感じのことを言うので千羽鶴は嬉しくなる。すっかり常連。
ケースに入っているのはハリネズミ。
のそのそと動き回る手のひらサイズの可愛い生き物。眺めてよし、触れてよし(軍手オプションあり)、抱えてよしの愛玩動物。にわかに流行の前兆を見せているハリネズミカフェ(千羽鶴調べ)は、すっかり千羽鶴のお気に入りだった。
……可愛い。
眺める。このカフェから一歩でも外に出れば、忙しない日常や行き交う人々にどうしたって呑まれてしまう。東京の観光地近くともなればなおのことであり、しかし、この場所は特別。小さな動物の主観時間はとても早く流れていくと聞くけど、そんなことを感じさせないのんびりさ。気ままさ。こじんまりとした手足。ネズミと名付けられつつ実はモグラの方がずっと近いという曖昧さ。
……なんて可愛らしい。
そのうち、店員さんがドリンクを運んでくる。小さく会釈をして受け取り、脇に置いておく。またハリネズミを眺める。たまにつついてみたり、手袋を置いてやり、ネコ科動物のごとくその中に頭から突っ込んでいくさまを見たり。
ハリネズミは好きだ。時間は無闇に過ぎていく。
頭が抜けなくなっていたようで、軍手からハリネズミを引き抜いてやると、
「こりゃ可愛かねえ」
言いながら、隣に座ってくる人がいた。
「みやび先輩。……触りますか?」
手袋を渡す。
「いいんか?」とそれを受け取り、おそるおそるハリネズミの背中を撫でる。「おぉ……なるほど……おぉ……」と、針というよりは毛並みに近いそれをゆっくり擦るようにする。
恋ヶ崎みやび。服装は出会った頃と変わらず、深い緑色の着物を纏っている。浅草付近の立地なのでむしろ馴染んでいるように思え、かといって電車の中で出会っても自然な着こなしゆえに溶け込んでいそうな風体。高校を卒業してからの変化と言えば制服姿を見なくなったくらいで、千羽鶴の目には逢瀬妹として対面した頃からあまり変化がないように見える人物。
「うりうり」とハリネズミを弄ぶみやび。「そぉーら高い高い」両手で水面をすくうようにしてハリネズミを抱え上げ、ゆるく上下させて楽しませる。「愛いやつめ」と降ろしてやっている。
……手慣れてる。
実は動物を飼っているんだろうか、と思い、
「待ち合わせ、ここでよかったんですか?」
「あ? あー、構わんよ。近くに寄る用事があったき」
ハリネズミを軽く撫でながら、
「しかし千羽鶴ちゃん、ええ趣味しとるなぁ。うちも気に入ってしまった」
「ありがとうございます。声をかけて頂ければいつでもお供します」
「なはは。うちがお供させてもらう方ちや」
千羽鶴は、みやびに対して意識的に敬語を使う。その方が『逢瀬千羽鶴っぽい』と感じたから。以前は立場のこともあって砕けた話し方だったけど、先輩後輩の立場とあってはこの方がしっくり来る。
「それでですね……」
千羽鶴は自分のかばんを開け、目的のものを取り出す。
「これなんですけど」
「んー? レターセット?」
みやびに差し出したのは、淡い紫色に和柄があしらわれた封筒と便箋。みやびはそれを受け取ると、「ふむ」ひっくり返したりしてみる。そうしてから、
「これはあれか。つばめちゃんが作ったんか?」
「……わかりますか?」
「いい意味でな。まっこと個性を感じゆう」
可愛かねえ、と封筒を眺めるみやび。口元には微笑をたたえている。
……すごい。
そうだと気づくみやびも、それを作ったつばめもすごい。
「つばめちゃんはこういうのを作る仕事もしてるんか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……出来たらいろいろ役立つんだよとは言ってました。グラフィック関連も使えるようになれば、印刷物系の必要なものをわざわざ外注したりしなくて済むとか」
「マネージャーとは名ばかりやなぁ。小さい芸能事務所となると、まぁそんなもんかなってイメージもあるが」
「私もうまく利用されてるように思えるんですけど……いつも自主的にやってて」
「……事務所どころか、卯月家に嫁入りでもする気なんかねえ」
「ありえそうです」
お互いに力が抜けた笑いを漏らす。神楽ちゃんの役に立ちたいんだ、と嬉しそうに言うつばめの笑顔と声色がすぐ頭に浮かぶからだ。
ひとしきり笑ったあとで、
「まぁまぁ。これに卯月へのメッセージを書けばえいんやね」
「そうですね。みんなで書いて渡そうと思ってます」
あいわかった、と懐に収めるみやび。ちょうどみやびの分の抹茶ラテが届き、軽くそれで口を潤してから、「んー……」何か考え込む仕草。
「……?」
味が気に入らなかったのだろうか、と思わされるタイミング。ここはペットカフェとはいえ味にこだわりがあると打ち出しており、千羽鶴もそれは実感していたから少し考え込んだ。
……なんだろう。
その間を突くように、
「千羽鶴ちゃん、進路は決まったが?」
「ぅえ?」
変な声が出てしまった。その様子を見てなのか、みやびはしたり顔で、
「いやあ聞いてしまったんよ。つばめちゃんが連絡をよこしててな、これから千羽鶴ちゃんと会うかもしれんけど、本当は危ない状況だと言っとった。早く進路を決めないと本人にとって良くないとな。けど誕生会の準備で動けるのは千羽鶴ちゃんしかおらん、とも」
「……ほんとですか」
「そやね。まっこと『お姉ちゃん』しとるねぇ」
くすくすと上品に笑い、
「で、こうも頼まれちゅう。私じゃ話しにくいかもしれないから、時間があったらで構わない、千羽鶴ちゃんの相談に乗ってやってくれと」
「……………………」
「おぉ。千羽鶴ちゃんのそんな顔を見るのは初めてやねぇ」
言われてすぐに両手で頬を覆った。軽く音が鳴ってしまい、千羽鶴は余計に恥ずかしくなってしまう。よく来るお店なのでさらに気になる。そのまま俯く。
顔を上げられないでいると、くいくいと制服の腕あたりを引かれ、
「千羽鶴ちゃん。ほれ、ハリネズミくん」
目の前にハリネズミの顔が現れる。みやびの手のひらですくわれるようにしているハリネズミは、しかしケースの中にいるときと様子は変わらない。飼い犬のように人間を気遣うような様子もなく、すんすんと鼻先を動かしている。何とも気まま。
……可愛い。
千羽鶴は指先を持ち上げて、ハリネズミの頭を撫でてやる。それも意に介さないといった様子が少しおかしく、自然と笑顔になってしまう。
「もうええが?」
言いながらみやびは、ハリネズミをケースに戻す。千羽鶴はほとんどそれを追いかけるようにして顔を上げ、自分の分のドリンクに口をつける。飲み干してから、
「あの……」
「正直なー、うちと千羽鶴ちゃんだとタイプが違うかなと思わんでもない」
千羽鶴が何か言いたげなのは察してなのか、その上でみやびは話し始める。
「可愛い後輩やき、相談に乗ってやりたいのは山々や。けどウサギ……光月さんならともかく、後輩の中でも千羽鶴ちゃんはうちの感性とだいぶ違うとこがあるやろ」
「……そうでしょうか」
「うちはそう思うよ。まぁ、それを分かった上でなら、相談に乗ってやりたくはある。何でも話してみぃ」
自信満々に微笑むみやび。つばめとの姉歴の差を感じた千羽鶴は、
……確かにお姉ちゃんには話しにくいかもしれない。
みやびと比べるのは実際かわいそうだが、直面してしまってはどうしても比較してしまうところはある。千羽鶴は自分の妹力はどうなんだろうと考えつつ、
「わかりました。お願いします」
しっかりお願いする。
▶
「何がわからないかわからないんです」
「……正直でえいねえ」
みやびはくくくと笑う。千羽鶴はその笑いが移って、しかし困ったようにしか笑うことは出来ない。
「プログラミングでよくあるんよ。何がわからないかわからない問題」
「そうなんですか」
「そうよ。独学の場合はこれに引っかかって大半は挫折しゆう。重大な問題ちや」
みやびはハリネズミの鼻先数センチのところに手を置いて、わしゃわしゃと誘うように指先を動かす。ハリネズミは興味を引かれたようにやってくる。
「こうしてな、誘導してくれる人がいれば話は違う。無闇な努力は何も生まん。目的がしっかり定まっているか、あるいは導いてもらえなければ、どこに行けばいいかすらわからなくなって動けなくなってしまう」
「……」
みやびの指先を追いかけるハリネズミ。その手を引っ込めると、数秒で何事もなかったかのように振る舞い始める。
「目隠しして迷路のゴールを目指そうって話や。その目隠しを外してくれるのが先生だとか、本とか映画とか、まあ人によってそれぞれ違うが。目的を与えてくれるものとか、それの達成を助けてくれるものちゅうことやき」
「目的……」
「そう。目的」
「先生とか、本とか映画が?」
「あー。これは『助けてくれるもの』かもしれん」
みやびは窓の外を見て、
「結局のところ、目的自体は自分で見つけるべきものやき。それを尊敬できる先生、先輩についていくこととするとかでも構わん。信頼できる人物の原動力を助けることも立派な目的になりうる。……光月さんはそれっぽいな」
ちょっと恥ずかしそうに笑うみやび。
「千羽鶴ちゃんにはそういう人はおるが?」
「……心当たりは」
ぱっと浮かんだのは、東雲先生。けどその気持ちは、東雲先生が過去に自分を導いてくれた頃の記憶がそうさせているところが大きいかもしれない。
……いまはどうだろう。
相変わらず情報管理庁の重要な立場にいることは変わらないし、本人への尊敬も変わらずにある。しかし、そこに自分の目的として抱ける何かがあるとは思えない。あの人のもとで働く、というのも何か違う気がする。
「そんなら、自分で何か見つけるのがえいね」
「自分で……ですか」
「うん。まぁ正直、うちにはそれをどうしたらえいかなんてわからん。付属大学の同期たちはな、縁故か明確な目的がなきゃこんな大学には来ないやろっちゅう連中ばかりや。進路に悩んでるようなやつはそもそもおらんちや」
みやびは「正直なとこ息苦しいね」と続け、
「うちの目的は、情報管理庁に就職することやない。公務員なんてまっぴらごめんやき」
「確かに想像できませんね」
「なぁ」
からからと笑い、
「じゃあ何でわざわざ単位を取りに行ってるかと言うとや。あの大学には最先端の設備と技術が集まってるからに他ならない。それに特別攻撃隊としての活動もあって、いまのところスパコンも貸与してもらえちゅう。うちが望むものを手に入れるにはうってつけの環境というわけや」
千羽鶴は、窓の外を眺めながら話しているみやびの横顔を見る。だんだんと笑みは薄くなっていき、力の入っていない自然な表情。話し声も淡々と。
「して。息苦しいとこに通ってまで勉強するのは何故かと言うとや。うちは領火さんの助手として働いてみたいと思ったからやき」
「……初耳です」
「そやったか? まあ、うちにとっては自然なことやね。間違いなく歴史に名を残すような人が身近におったら、よっぽど自分の人生で大事にしたいことがあるとかでなければ、ついてきたいと思うのが普通と思わされた。それくらいの人ちゅうわけや」
そこまでなのか、と千羽鶴は思う。みやび自身も相当な技術者であるはずだが、やはり領火は雲のずっと上の存在ということか。
みやびは抹茶ラテをかき混ぜながら、
「うち自身の目的もあるにはある。けどそれは、領火さんのところで研究したりすることで進められることでもある。うちにとっては好都合のお祭り騒ぎ案件となる」
「なるほど……」
「……ここまで話してわかったかもわからんが」
みやびは不意に千羽鶴の方を向く。いつになくまじめな顔。
「うちには明確な武器と、目的と、好条件な目指すべき場所がはっきりとある。正直なとこ、恵まれてる。言ってしまえば、普通に仕事して暮らすなら働き口はいくらでもありゆう」
「……」
「千羽鶴ちゃんは長官だった過去がある。けんど、あまりそれには触れられたくないんやろ?」
「……」
こくんと頷く。見透かされている。
「じゃあ、経歴や東雲先生とのコネを使って管理庁に進むのはなしや。そうなると千羽鶴ちゃんは、たぶん千羽鶴ちゃんが望んだとおりの『普通の女子高生』や」
言いきって、間が置かれる。みやびは千羽鶴の目元をたっぷり三秒は覗き込んでから視線を外して、ハリネズミの方を見やる。気ままな愛らしい生き物。
「うちの持論やけど。さっき言うたとおり、人は目的地がないと進むことはできん。導いてくれる人やものがなければ、どこにも行けずに立ち止まってしまう。学生のほとんどがそうならないのは、学校を出て就職するという『普通』のライフプランがどこからか示されてるからやな」
「普通……」
「うちは千羽鶴ちゃんなら、たぶんつばめちゃん以上に、どこでもうまくやっていけると思う。劇場での働きぶりを見ればわかるし、並の頭に管理庁のトップはできん」
東雲先生にも同じことを言われた、と千羽鶴は思い返す。
「うちからあーしろこーしろとは言うことはできん。けど、何がわからないのかわからないんだったら、うちが人生をどうするか決めたときの考え方は話せると思うた。だからこの話をしとる……んやけど……」
急に語尾が弱まるみやび。千羽鶴はみやびがハリネズミを弄ぶ指先を眺めていたけど、「あー……」と声を漏らした横顔を見やる。心なしか耳が赤い。
そして突然頭を抱えた。
「……まじめすぎたか!」
かーとかくぁーとか言いながら悶絶し始めるみやび。千羽鶴は一瞬だけ面食らってぽかんとしてしまったが、すぐに可笑しくなり、控えめながら笑いだしてしまう。
ひとしきり済んだあとで、
「ありがとうございました。とても参考になりました」
「そんならえいけど……」
笑われたのが気に入らないのか恥ずかしいのか、みやびは言いながらも口先を尖らせる。千羽鶴はまた笑ってしまいそうになるが、
「お礼と言ってはなんですけど、オススメをおごっちゃいますよ」
「……ほう?」
いったん席を離れ、カウンターにいる店員さんにオーダーを伝える。席に戻るとみやびは既に調子を取り戻したようで、いつもの余裕を感じさせる佇まい。
「千羽鶴ちゃんがそこまで言うのは、期待してもええが?」
「もちろんです。ばっちり期待してください」
「おぉ? それは楽しみやねぇ」
そして間を置かず、店員さんが『オススメ』を運んでくる。どうぞー、と言いながら机に届けられたそれは、
「これは…………?」
お菓子のようにもおがくずのようにも見える、奇妙な形をした小さく細かな棒状の物体。深い茶色をして、お世辞にも食欲をそそるとは思えないそれは、
「ドライミルワームです」
「ドライみる……何?」
「ドライミルワーム。乾燥させた虫です」
みやびの目が点になる。千羽鶴が予想したままの反応。
添えられていたピンセットをスッと構え、
「こうします」
いくらかドライミルワームをつまむと、ハリネズミにそれを差し出す。
ハリネズミは目の前に現れたそれを、少し確認するように鼻先でつつく。そうしてからすぐに、
「おぉー」
もそもそと食べる。みやびは小さく感嘆をあげ、千羽鶴は人知れず薄めのドヤ顔。二回三回とそれを繰り返して、「うちもやる」みやびがピンセットを受け取る。
こなれて来ると、ハリネズミがおやつ(四○○円)を食べるピッチが上がっていく。カリカリと食べる姿は何とも言えず愛らしい。
千羽鶴とみやびは、わぁとかおぉとか言いながら餌付けに夢中になっていった。
▶
カフェを出てみやびと別れた千羽鶴。
次の目的地へ向かうため、最寄りの地下鉄駅を目指していた。道を歩きながら考えるのは、
……思ったより濃かった。
みやびがしていた話について。
千羽鶴が待ち合わせ場所をハリネズミカフェに指定したのは、偶然みやびと会うには都合がいい場所だったことと、考え込んで疲れた頭を癒やすためだった。あそこは千羽鶴が見つけたお気に入りスポットで、今日のようにぐるぐるしてしまっているときにはピッタリの場所。
だったけど、考えていたよりもつばめが用意周到だった。気遣いが出来る子であるとも言えるが、千羽鶴にとっては不都合なところもある。
……トータルで見たらプラスかもしれないけど。
みやびの話は、実際のところ参考になった。まったく指標がないところから考えるよりはずっといい位置に進めたと思える。それに、自分からはとてもではないが相談しようなんて発想もなかったはず。
……感謝すべきか。
頭を空っぽにしてハリネズミと遊びたかった気持ちはある。だけど、自分を心配して手を回すまでしてくれた姉には感謝が先立った。何かお土産を買っていこうと決めつつ、千羽鶴はたどり着いた駅の入口階段を下っていく。
▶
地下鉄から有楽町線へ乗り継いで、向かった先は江戸川橋駅。駅を降りたら歩いて数分で目的地へたどり着く予定。神田川に渡された橋を通り、マップアプリの誘導に従ってすとすと歩く。
……着いた。
コンビニや小さな商店が立ち並ぶ郊外の道路。そこに突然現れる、周囲とは雰囲気が異なるオシャレかつ大きな建築物。区民センターだ。
待ち合わせは入口付近。行き交う車や自転車、周辺住民と思われる人々を見送っていると、
「あ」
見覚えのあるバイクが走り込んできた。遠目から一見しただけでもよくわかる、他のバイクとは一線を画するスタイリッシュさ、鮮やかなブルーのカラーリング。忍者の名がつけられたそのバイクは、やや離れた駐車場に入り込んでいく。
少しして、
「おまたせ!」
直接会うのは久しぶりになる、アーヤが現れた。
▶
國政綾水は去年に大学を卒業していた。
実家が名のある神社であり、事実上、その神社における唯一の跡取り候補になっていたアーヤ。政府直属の特別攻撃隊・トライナリーとして活動する事もあり上京してきていたが、その期間も終わりということになる。
しかしながら、世界の蒸着を経て世論は一変していた。量子テクノロジーによる奇跡を筆頭に、フェノメノンを発端とする日本で起きた一連の事件は強い衝撃を巻き起こす。世間の表層では数ヶ月で落ち着きを取り戻したことになっていたが、もちろんそんなはずもなく、諸外国からの牽制や斥候はいくらでも日本に入り込んできていた。
そんな情勢の中でアーヤは、トライナリーのリーダーとして活動していた実績を(真幌から無理やり)認められ、卒業後も情報管理庁での職務に従事してほしいという辞令が(真幌から無理やり)下されていた。もちろん國政家から反対が噴出はしたが、アーヤ自身の意志もあり、二年以内という期間で活動を行うことに決まったらしい。
千羽鶴からすれば、卒業したあとの彼女は特に変わらない。みやびのように制服を着なくなったという変化もないし、相変わらずとらいあんぐるに住んでいるし、公務員として(基本は)九時五時で働き出した以外はほとんど以前のアーヤと同じままだ。
……私が変わってないからそう感じるだけかも。
そんな風に思いながら、
「はーいみんな! こんにちはー!」
こんにちわー、と子どもたちの元気な返事を聞くアーヤを眺める。
アーヤが職員並に馴染んでいるように見える、大学時代からよく通っていたという幼稚園に来ていた。
千羽鶴は教室の隅っこに体育座りをしており、高校のそれよりかなり小さなスケール感の内装に新鮮さを感じたりしている。幼児が過ごしやすいように揃えられた大きさの下駄箱、椅子や机、膝より下の位置にある本棚とか。自分が巨大化したかのような錯覚を覚えるくらいには新鮮。
……そもそも通った記憶がないし。
千羽鶴はこの日、幼稚園へは見学に来ていた。アーヤは休日のプライベートな時間を幼稚園でのボランティアに当てていて、どうせ会うなら見ていきなよというお誘いがあったので、ここに入り込めている。
「……」
アーヤの紙芝居は実に達者なもので、聞き取りやすくゆっくりとした語り、幅のある声量と表現、演技がかった身振りも含めて子供たちをよく惹きつけている。伊達に賞を取ったりしていない。
すごいなぁ、と思う。『普通』の自分とは大違いだと。
▶
アーヤ劇場の終演後。子どもたちが帰宅したあとの教室内で、千羽鶴とアーヤは二人でいた。
「千羽鶴ちゃん、どうだった? 私の紙芝居」
「……すごかったです。さすがに年季を感じました」
「そうでしょう? やると決まったらずっと練習してるからね」
ドヤ顔のアーヤは、自作しているらしいドリンクが詰まったタンブラーに口をつけてぐいぐいと行く。
「ずっと練習してるんですか?」
「? そうだけど?」もう一度タンブラーに口をつけ、
「彼氏とかいないんですか?」
んぶぐとかそんな感じの声が漏れ聞こえ、アーヤが飲み物を喉に詰まらせたことに千羽鶴は気づいた。慌てて立ち上がって丸まった背中を擦ってやる。
アーヤの咳き込みが収まったあと、
「大丈夫ですか」
声をかけて確認する。アーヤはハンカチで口元を拭ってから、
「まだ全然行き遅れてないから!」
詰まらせた影響もあるのか、少し涙目になって千羽鶴をにらむアーヤ。妙な迫力があって千羽鶴は「すみません……」と小声。行き遅れについて聞いたのではなく体調について大丈夫かと聞いたのだけど、言い出せるような雰囲気でもない。
千羽鶴はどこかで見たイカズゴケアーヤについて一瞬だけ思い出したり、早婚の杖とか我ながらすごいセンスだなと考えつつ、
「本題なんですけど」
嫌な流れを断ち切るべくかばんを漁る。みやびに渡したのとは色違いのそれを探り当て、
「これです。レターセット……」
「……」
アーヤは妙な沈み方をしてしまっていた。
「そもそも大学でまともな出会いがなかったのに管理庁で出会いがあるわけないのよ……上司はだいたい先輩だし……トライナリーだとか館長直々の推薦だとかで誰も寄り付かないし……またまともな部署じゃないし……」
「で、でも来年いっぱいの契約なんですよね」
千羽鶴は反射的にそう言ってしまってから、
「そしたら間違いなく実家に帰るのよ……」
アーヤの置かれた立場に気づいた。
「高校三年生だっけ? 制服? きらきらしてるわね……私みたいになっちゃだめよ……いい人見つけなさいね……」
千羽鶴は一瞬だけ、恋人どころか婚約者が既にいますと正直に言うべきか悩んだが、誰も幸せにならないことを悟ってやめておいた。そういえば言ってなかったような気もするし、しばらく伏せておくのが吉かもしれない。
とりあえず仕事をしたい。
「あの。これ、レターセットです」
「ん? あぁ……確かに受け取ったわ。ありがと」
頼りがいの一切が消失してしまっているが、なんとか手渡すことは出来た。
これで今回の用事は終わりなのだが、
「「……」」
このまま別れたら次にどんな顔をして会えばいいのかわからない。ここまで深刻な反応をされるほどキツいのだろうかとか、今後は絶対触れないにしてもまず現状からどう脱すればいいかわからない。
『まだわからないじゃないですか! 999/10 ♡』→ 地雷
『きっと運命の出会いがありますよ 999/10 ♡』 → 無責任
『私でも見つけられましたし平気ですよ 999/10 ♡』 → 爆弾
『私がいるじゃないですか! 999/999 ♡』 → ????
……変なものが見えた。
このまま立ち去るわけにもいかない。千羽鶴は話題を探す。何かないか何かないかと頭を巡らせ、
「あ」
すぐに見つかった。嘘をつかず、時期は不自然だけど、アーヤを先輩として立てつつも適度に転がりそうな話題。
すぐ口に出す。
「あの。進路のことなんですけど」
「?」首をかしげるアーヤ。
「あ、えっと、私のです」
千羽鶴は自分が置かれた状況について語った。進路決定を遅らせてもらっていたこと。それをすっかり忘れていて真幌から怒られたこと。決めないと誕生日会に参加できなくなってしまったこと。しかし何も思い浮かばないということ。誰かに相談しなければ八方塞がりであること。みやびに相談したら持論を語ってもらえたこと。
とにかく矢継ぎ早に話して空気を埋めていく。
「……」
アーヤは凹んでいるなりに聞いてくれているようで、「そんなことになってたのね」と返事をしてくれる頃には、多少の余裕を取り戻していた。眉尻を下げた笑みを浮かべながら、
「進路かあ……」
さっきのみやびと同じように、どこか遠くを眺めながらつぶやいた。そのまま五秒の間があり、
「したいことをしたらいいんじゃないかしら?」
「……それがわからなくて」
「何かないの? ほら、ぬいぐるみ作るの得意って聞くけど」
「現実的な方向で考えたくて」
「現実的……」
アーヤは、げんじつてき、と噛みしめるように言う。頭の中で理解しようとしているのがわかった。それを見て、千羽鶴は察した。
……この人もみやび先輩と同じだ。
「申し訳ないけど、私もみやびと同じかもしれないわ」
思考と回答が重なった。
「えっと、みやびみたいに自分で身につけた技術があるわけじゃなくて。私は昔からやるべきことがずっと用意されてたと思う。いいか悪いかは置いといてこれは今も変わらないかも」
アーヤは指を折って数え始める。
「生まれは神社で、覚えることやこなさなきゃいけない仕事はずっとあった。お姉ちゃんは昔からああいう感じだったから、私がしっかりしなきゃいけないと思って、家のことも学校のことも剣道も頑張ってたわ。今だってそう。私にやってほしいと言われることでいっぱいだった……」
あれもこれも、と指で数え続ける。千羽鶴はそれを眺める。
「まあ……そのせいで……」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
また妙な方向へ折れ始めそうだったので、早めに止めておく。それでもまた膝を抱えてしまうアーヤをたしなめながら、
……向こう側から来る仕事か。
アーヤは器用なタイプだと思う。高校の頃は生徒会長を務めていたと言うし、剣道だって世界大会を制するレベルだ。TRI-OSを通して見ていたときや、いま陥っている状況のように、メンタル面にある種の脆さは抱えている。しかしそれを補って余りある習得・実行能力がある。
「アーヤさんは……」
そこまで考えて、自然と疑問が口をついていた。
「もし実家に帰らなくてよくなったとして、したいことってありますか?」
「……したいこと?」
「なんというか……現実的に」
そう、『現実的』に。千羽鶴は自分で言いながら、浮かんでいた疑問が腑に落ちるのを感じいていた。ほしかったパズルのピースを見つけた。その答えをアーヤから聞いてみたい。
抱えていた膝から頭を起こして、アーヤはまた考える素振り。教室内を見渡して、千羽鶴を見て、自分の膝あたりを見る。
「言われてみると……難しいかもしれない」
ふっ、と心が軽くなるのを感じた。
「千羽鶴ちゃんも一緒なのかしらね。私、自分ではあんまりやりたいことを考える時間がなかった……考えてこなかったかも。私なんかがそうなのに、情報管理庁の長官やってたとか、千羽鶴ちゃんは悩むのが当然よね」
「……」こくんと頷く。
「そう考えたらみやびはとっても大人だわ。自分でやりたいことがあって、やるべきこともわかってて、それに向かって努力してる。私は自分でやりたいことを選んできたつもりだったけど、実は周りに流されてただけかもしれない」
「……でも、いろんな人がついてきてます。評価もされてるはずです。アーヤ先輩は」息を吸って、「どんな気持ちでしたか」
曖昧な質問になってしまった。しかしアーヤは、千羽鶴の小さな逡巡まで汲み取ってくれたようで、ごく自然に答えをつなぐ。
「ずっと充実してるわね。いままで進路について考えたことがあんまりなかったくらい……高校生のときくらいじゃないかしら。って言っても、高校生活は勉強と部活と生徒会漬けで、普通に遊んだり、男の子と楽しそうに話してる子たちが羨ましかった。だから私も、東京で思いっきりオシャレしたり、可愛いカフェに行ったり、素敵な恋をしたいとか、そんな気持ちばっかり」
「意外です」実は知ってます、とは言わず。
「素敵な恋……は、いいとして。いいのよ? ――それからは本当にいろいろあったわね。何があったかは千羽鶴ちゃんもだいたい知ってるところが多いと思うけど、いろいろ考え方も変わった。けど、やってることはずっと変わらないわ。やって来る仕事を捌き続ける……捌き続けて……もし神社を継がなくてよくなったら……」
「素敵な恋をしてください」
かぶせるように千羽鶴は言う。アーヤはちょっとだけびっくりしたような顔をして、「そうね」と、きょう一番にきれいな笑顔を見せた。
▶
夕方。
アーヤと真幌についての話題で盛り上がったり、恋愛の話に行くたび自分も独り身であると仮定しながら乗りきったりしていて、気づけば日が暮れようとしていた。アーヤの方に次の予定があり、
「進路が決まったら教えてね」
と約束をして、幼稚園近くの駐車場で二人は別れた。
……ちょっと印象が変わったかも。
千羽鶴はマフラーに口元をうずめながら、ココロスフィアやフェノメノンにいた頃の彼女を思い返していた。いちばん変わったのはアーヤかもしれない。素敵な恋愛への憧れというのはブーストされる形で表層に表れていたけど、それでも後輩である自分に対して表面化させるタイプの人ではなかった。
……酸いも甘いも噛み分けたって感じ。
以前のアーヤは、人に対して自分の弱みを見せるようなことがほとんどなかった。一人で何でも出来てしまって、その完全性がもちろん完全ではないままに人格へ馴染んでいるような人物だった。有り体に言えば完璧主義の堅物。
そのアーヤがあんな風に振る舞っていた。なぜだろうと考えて、
「ああ」
駅に向かって歩きながら、千羽鶴はすぐに気づいた。
……領火が帰って来たからか。
マフラーに溜めるようにして、はーっと温かい息を吐く。日が沈んだらもっと冷え込む。電車も混みあう。早く帰ってお茶でもしたいところ。
なんだか無性に寮へ帰りたくなる気持ちが強くなり、
「ん」
ほぼ同時に携帯へメッセージが入った。ちょうど駅入口に着いていたので、その脇で立ち止まって内容を確認する。
「む…………」
▶
江戸川橋から電車に乗り込んで二十分ほど。途中で何度も、帰ってしまおうか、でも会う機会はなかなかないし、と迷いながら何とかたどり着いた駅。
外に出て、ここまで来てしまったからと頭を納得させる。マップアプリは必要ないのでそのまま歩き出す。ここまで来てしまえば面倒さやどこか憂鬱だった気持ちはだいぶ薄れていて、軽くなった足取りで千羽鶴は目的地を目指している。
……会いたい。
いつになく素直な、これから会うその相手には絶対に言いたくないような、言ってしまいたいような重ね合わせの気持ちがある事を自覚する。動く足が逸るのを止めない。
そうしてたどり着いた先は、高層マンションの足元。
何度来ても『いかにも』といった感想しか出すことができない、江戸川橋から訪れるにはギャップが大きすぎる精緻な高層建築。点々とライトアップされた街路樹のある入口までの道。大規模ショッピングモールでも見ない大きさがあるガラス張りのエントランス、その手前に横付けされている高級(なんだろうなという)車。見上げれば、これが人の住む場所なのかと思わされる威容があるビルが見下ろしてくる。
しかし千羽鶴は慣れているので、いかめしい警備のおじさんとも顔馴染み。
「こんばんは」
と気軽に挨拶しながら歩を進める。
オートロック設備がある扉の前まで来た。用がある四三階の部屋番号を入力してインターフォンを鳴らす。少しだけ間を置いてから、
『はい♪』
「千羽鶴です。開けて」
『——はいはいただいまぁ』
前後で差異がありすぎるトーンの対応をした部屋の住人は、ロックを解除して千羽鶴をマンション内へ招き入れた。
踏み入れると、すぐに直面するのはエスカレーター。職員が常駐しているのであろう総合案内。配置された観葉植物と、窓の外に見える夜の公園。不自然なくらい人通りがなく、映画のセット内を自由に歩き回っているような、どこか現実離れした雰囲気に呑まれそうになる。生きる世界が違うな、といつも通りの感想を抱きつつエレベーターへ乗り込んだ。
四三階でエレベーターが止まり、扉が開くと、
「あ。来ましたね」
卯月神楽がいた。
厚手のシンプルなコートにラフな巻き方のマフラー、普段は編み込んでいる髪もほどかれていて、後頭部でお団子にまとめあげられているスタイル。見るからにリラックスしていたところからサッと外出するための着合わせだった。
突然の状況に千羽鶴は何を言うべきか迷い、
「おほん。出迎えご苦労」
「……誰ですか? それ」
さっさと行きますよ、と神楽に促される。千羽鶴は数秒間だけ固まってしまうが、どこか落ち込んだ気持ちは隠して後についていく。
いつかの自分はトラウマを植え付けてしまうほどに、いまの神楽と同じような現れ方をした。意趣返しのつもりなのかと構えてしまったがそういう訳でもなく、ただ普通に出迎えに来てくれていただけのようだった。わざわざ暖かい部屋から出てきてくれた相手に対して気の利いたことを言えずじまい。
……何をこんなにビクビクしてるんだか。
千羽鶴は自分自身を叱咤する。マンションの廊下を先行して歩いていた神楽は、たどりついた自室の扉を開けて中に入り、
「ほらほら早く入ってください」
それでもどこか腰が引けていた千羽鶴をひっぱり込む。コートやバッグを奪い取って先に部屋へ上がり込んだ。千羽鶴はなぜかされるがままで、
「あ……」りがと、とも言えず。
「なんですか?」
「……なんでもない。お邪魔します」
すっかり慣れたような、けど久しぶりに訪れる卯月家へ。
▶
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