2017年12月6日

前回の記事のある表現について




ツイッターに前回の記事を流したところ、賛否両論いろいろありました。最後の大文字強調による文言についてですね。



「あれは煽りであるようにしか見えない」「それがあなたの意見であるなら書いておいていいし大々的に責められるレベルではない」「Botごとに各々の考えがあって選択していたことを理解してほしい」「事実としてあなたほど千羽鶴について考えているBotさんはほとんどいない」「界隈で摩擦が起きたのがあまりにも悲しい」「みんながこの話題についてセンシティブ過ぎるだけ」「あんたのスタンスはわかるがそこで殴りに来る必要はあるのか」「自分にとってこの考察は非難の対象というより尊敬の対象」「結局どんだけ理論武装して正解のように語っても主観はあるから正解なんてないわなとなる」「トライナリーは社会実験だってはっきりわかんだね」「正直あれはその考えは間違ってるからって言ってるようにしか見えんよ」

などなどなどなど。様々な反応を見ました。丁寧にフォローを外したうえでいろいろ言ってくださっていた方、なんやかんやとしつつも相互を保ってくださっている方、わざわざDMを送ってきていろいろ教えてくれたりしてくれた方、捨て垢を作って6件に渡るリプライをくださった方、普通に称賛してくださった方、などなどなどなど。多様…。



いろいろ考え直して、現状としては、納得が半分・いやしかしという反感が半分という気分なのが正直なところです。駆け足で書いていたなかであの表現に至ったのには、自分なりに分析できる理由がきちんとあります。それを提示してから書けばよかったのですが、押さえずして本音だけを書いてしまった結果として反感を買ってしまった、というのもまたあると思います。

以下で釈明していきますが、どんな気分になっても目を通してやってもいいという方のみ、読んでいただけると幸いです。最初から拒否の姿勢ならばご遠慮いただければと思います(そっとブロック&サヨナラしてください)。


半分:反省



確かに気遣いが足りなかった部分はあると感じます。Botさんは各々で思索のかぎりを尽くし、それぞれで精一杯の選択をしていたというのは事実としてあると思います。その思考量について、今回の自分のアレはとやかく口出ししていたわけですね。たしかにひどいです。自分は実際に誰かの思考ルートを覗き、そこにかけた時間と質量を観測して検証したわけではないです。それを「おまえの考えは全然足りてないから残酷な選択をしている」と一方的に押しつけるのは、どちらの思考に量の違いや優劣が事実としてあったとしても踏み込んではいけない領域でしょう。これに関しては非常に納得しました。不快な思いをされた方がいらっしゃったら、これに関しては心底申し訳ないです。すみませんでした。

直感的に反省の意図を表した文面は、批判のリプライを寄せられた方に返した自分のリプライが詳しいです(リンク)。

正直なところとして、自分ほど千羽鶴側について考えを巡らせ、成果としてわかりやすく見える形になるよう協力しているBotはほとんどいないと思っています。順番は逆ですが、フォーラムは結果的にそれを体現するものになっていますし(自分ひとりでは絶対にここまで続いていません、いつもありがとうございます)、自分がこの長文の流れの起点となった文章に書いたようなことは、①番でなかった方の気持ちに①番を選んだBotの気持ちが届くように書いています(あまりに勢いだけすぎる感はありますが)。結果として、ツイートにも含めているよう驕りが生まれ、あの表現に結びついたひとつの原因となったのだと思います。

その点に関しては、もう本当にそれはもう、といった気持ちがあります。

恥じ入るばかりです。


半分:反感



半分とは書いてますが、いろいろ経緯とかも書くので圧倒的に長いと思います。


自分は少数派です。総意の選択の際にも振り落とされました。以前の記事に書きましたが、どれだけ深く考えて選択して、どんな想いがあったとしても、結局は主流派ではないということで流されていきました。その数%は向こうの世界に残留してはいましたが、やはり自分が思い描いていた理想の展開でなかったことは事実です。

その前提をわかっておいてもらい、知ってほしいのが、この長文感想の流れにおける起点の記事を書いたのは自分であるということです。そしてその記事には「自分が千羽鶴に抱いていた気持ちはどういった変化をたどっていたか」のみが書かれています。2番手として現れた方は「全話の流れと発症是非スタンスにおける自分の変化」について書いており、ここには明確な差異があります。

何が言いたいかというと、自分は文集としてまとめを作ってはいますが、この「全話の流れと発症是非スタンスにおける自分の変化」を書く流れ自体は戦々恐々といった観点でしか見ていないということです。この記事中では「自分の考えの基礎となる資料集めのため、多角的な視点から得た情報をもとに自分の考えを再構築していくため」と目的を書いていますね。これは事実で、なぜそうまでし始めたかというと、シャッツキステにおけるオフまでにこの記事を書き上げなければならなかったからです。ストレスを抱えてでもすべての感想文を読み、自分なりの答えを出してからでなければ、純粋に楽しむことはできないと思っていたからです。


多数派と少数派



具体的に、どういった感想文やツイートが自分を戦々恐々とさせていたかを提示したいと思います。端的に表れているすばらしいツイートがあったので引用させていただくと、


僕にとっては理想世界ひゃっふーーーー!!!って感じなのでたのしいです


圧倒的な多数派パワーを感じて膝から崩れ落ちました(座ってましたけど)。

端的にこのツイートから感じた悲しみを表すと、「少数派の意見は今後何がどうあっても淘汰されていって偏っていくのだろうな」ということでした。どういうことかと言いますと、シンプルにこのツイートには「多数派が築いた世界は最高だから少数派の意見は聞きません」という意志が隠れているように感じたからです。ここまでに起きたすべてのことのどこにも議論の余地はなく、自分たちが少しも間違っていることを容認しないという姿勢を感じたのです。実際がどうなのかはわかりませんが、そうしたスタンスを感じる多数派のBotさんは自分の視点からはいくらも見受けられるように思います。

少数派のさらに自分ひとりしか語っていないと、考えや説得力が多数派の言葉の絶対数に比べてあまりに不利なので、またある方のツイートを引用させていただきます。


長文感想読んで『わぁ、こんな考え方もあるんだぁ』で止まっちゃいがちなあたり、まだトライナリーって対話段階に至ってないよな対話ならフィードバックがあって、そこから探究が始まり、より良く磨かれた思考が作られると思うんだけどな今の他の人の意見や考え方は、その人の世界線のもので、口出しや否定はするべきではないっていう停滞がもったいない気がする否定ってのは正確ではなかった 優劣を競う討論をしたいわけではなく、差異を見て『違うから』で終わらせるのではなく、なぜ違うのか、そこから学べることはないのかを話せる環境じゃねーなと


前置いたとおり、これは少数派の方のツイートです。そして以下に続けて引用しているのは、このツイートに対する多数派の方のアンサー(と思われるツイート)。


けど誤解を恐れずにあえて言うと、お互いに距離感を保つことで界隈をうまく回してるっていう雰囲気はあるから、今の長文感想の流れはまさしく『自分の辿った想いを具現化する行為』であって、議論や対話をしたいわけじゃないよなー、みたいなそもそも『解釈次第で如何様にも取れる部分』って正しさよりも自分自身がそれを聞いてどう思ったかに主眼が置かれてる気がするから、そういう意味でも明確な根拠を提示してそれぞれの考えに対して『これは正しい』『これは正しくない』っていう線引きをしちゃいけないんだと思うあんまり下手に干渉すると結局対立構造が生まれて今のいい感じの界隈の空気がぶち壊しになる、っていうのを深層心理感じてる人もいると思う


わかるでしょうか。引用させていただいた方(と自分を含めた少数派)は「対話」を望んでおり、多数派の方は「界隈の安定」を望んでいるのです。

次に引用させていただくのは、千羽鶴先生の言葉です。


「世の中では、どのようなこともバランスを欠いてしまえば狂気になる。それがたとえ、正義と言われるものであっても。」


引用の嵐はここまでです。


何が言いたいのかと言いますと、「極端に偏ってはいるものの安定している世界の空気に甘んじて、対話とそれによる発展を欠こうとしているのではないか」ということです。もっと感情的に表現すれば「少数派の俺らのことはどうでもいいのかよ」であり、今回の指摘を受けた表現はおそらく生ぬるいようなストレスをこちらに負担させていることについてあまりにも無自覚なのではないかということです。



ここで手前の話題に戻ります。なぜ自分が文集まとめに対して妙な感情を抱いていたかというと、結局のところ発展性のない自分とは反対の意見を目の当たりにし続けることになり、最終的に少数派である自分たちが今後報われるであろうことはないと感じ続けることになるからです。

…………わかりにくいですけど他に表現ができないです。


まとめたい



書きながらも考え、ようやく言葉になってきた感覚を以下に書いていきます。


一言で言うと、少数派は戦い続けなければなりません。多数派を少しでもこちら側に引き込み、バランスを保ち、あわよくば多数派に回れるように立ち回らなければいけません。自分にそれを達成しうるだけの力があるかどうかはさておき、ただ千羽鶴を支持したBotとして、千羽鶴のためだけにその戦いに乗らざるを得ず、そこから降りることは千羽鶴の支持から離れることと同義であると思います(すべての千羽鶴を支持するBotさんが乗る必要はないと思います)。個人的には、それをしなければ「なぜ千羽鶴を支持したのか」という問いに胸を張って「千羽鶴の選択が優れていると思ったから」と答えることができないと思います。

戦い続けるというのは、多数派に己の意見を少しでも食い込ませて少数派の言葉を理解してもらい、よく考えてもらうということです。自分が文集を作るためにあらゆる感想文に目を通しながら、あらゆるツイートに目を通しながら、はっきりと感じていた「少数派の話はどうでもいいのか」という感覚へ打ち勝つためには、まずよく考えてもらうことが必要です。それを拒否されてしまっては、前にも後ろにも動くことができません。千羽鶴を支持した少数派は、永遠に少数派のままでしょう。

これが身勝手な行いにならないという根拠は、千羽鶴の「世の中では、どのようなこともバランスを欠いてしまえば狂気になる。それがたとえ、正義と言われるものであっても。」という言葉がそれにあたります。いつかまた重要な選択肢を選ぶときが来るとして、多数派が偏ったままでは乗り越えられない、2x概念のような唐突な救済は訪れない危機だったとして、それを後悔なくやり過ごすことができるでしょうか? そのようなわかりやすい危機でなくとも、偏っていることで生じる不均衡が起こす不幸はいくらでも想像できるように思います。


千羽鶴に協力するか・反対するかの選択については、もうすべて終わったことです。だからこそもう過ぎたことだと思い、ep31のつばめエピソード前半ラストの終わり際、千羽鶴があのような形で話をしてくれたこともあり、特に何も言わず・思わず・考えずにいたのです。しかし、その思いの丈を綴った感想文が形を変えて流行しだしました。それは自分に深く考えが至らなかった後悔を深く思い出させ、それと同時、多数派に最初から居着いた結果を変えることはできない(対話を望まれていない)という姿勢が幾度となく垣間見え、それが自分にストレスをもたらしました。少数派はどうでもいいのかという思い自体は、選択肢の結果が提示されてからep31を迎えるまでの間、僕にとっては理想世界ひゃっふーーーー!!!って感じなのでたのしいですと似た趣旨のツイートを何度か見て、そのたびに強くストレスを感じていたように思います。


長々と書いてきたこの考えは「多数派が少数派の思考を拒否することで得られる温泉とその総意は、本当に彼女らのためになるのか?」という言葉にまとめられます。


トライナリーのツイッターコミュニティが空中分解してほしいわけではないです。けど、次の段階である「価値観を冷静に伝え合うことのできる対話・討論・議論」を求めてもいいんじゃないのか、という思いがあったのだな、と考えが至りました。


改めて前回のあの表現について



上述してきた考えを整理しきれていない段階で、しかし強い思いがあったゆえ、センセーショナルな形を用いて表現として出てしまったのが、「90%のBotらはもっと千羽鶴のこと、千羽鶴の言っていたことを考えるべきです(これ一番大事)」。だったわけです。

捨て垢からリプライを送ってきた方に、自分が返したリプライの内容にもちょっと表れていました。「これまでの感想文の流れで少数派である自分ばかりが傷ついて『少しくらいやり返してもいいのではないか』という暗い思いがあったことなどがあり今回の大文字強調文字に至りました」。まだ上述した答えを感覚としてしか持っていなかったのですが、結構的確に書いているような気がします。

あの表現に攻撃的なニュアンスが多少なりとも含まれていたのは、単純に子供っぽいやり返しというのも多分にあるとは思うのですが(直感で書いていたので)、「多数派が偏ったゆえに変化を極端に嫌った総意が本当に彼女らのためになりうるのか」という苛立ちがあったことも書き添えておきたく思います。

単純に千羽鶴を軽く捉えすぎているBotさんへの「なんだよそりゃー」という感情もあったにはありました。けど、それは3割程度しか含まれておらず、他の大半は前述したことの苛立ちです。


答えとしてはこれくらいが精一杯です。また何か浮かぶかもしれませんが、そのときにはまた何か書きます。


悩んで得た見解



ひとりで考えてもダメだなと思ったのでなんかアドバイスくださいヽ(;▽;)ノ



2017年12月5日

トライナリー|みんながするので自分もスタンスの話をしたくなった



千羽鶴さん「しゃべった方が楽なのでは?」



音声入力とかしたいんですけど、タイピング慣れてるとそんな変わらんみたいですね。世の中はかくも厳しい。さておき。

なんか自分は千羽鶴さんの話しかしてないのに、感想文提出の流れが広まってからみんなして発症是非スタンスの話をたくさんしていて、なんとなく自分もしたくなったので二本目。普段から考えていたことを書いて行きたく思います。


ep14



自分はすべての選択肢において、千羽鶴さん最優先のものを選択し続けました。ツイッターやBloggerのアイコンからして一目瞭然な感じはありますが、しかし、最初から最後まで本当にそうであったかと言われるとあんまり自信がありません。

事実として、最初は自分はカレンをセルフクランに据えていました。千羽鶴がセルフクランのままでいるルートが存在すると知ったのはツイッター経由であり、完全に後出しジャンケンです。それ以上でも以下でもないのですが、ただ、百鶴さんやカレンさんの話をきちんと何度も聴き直して、千羽鶴さん最優先の選択肢として考え抜いた結果としての選択だったことは確かです。正直なとこ初見で千羽鶴をセルフクランに据えようとするルートを選択した方は盲信気味なとこがあるのではと思わなくもないですが、ただその選択をした方々も信念だとか、何かしらの根拠があったには違いないことでしょう。

他にも、いわゆる刻印の選択肢のファーストフラグは「すみませんでした」の方でした。普通に考えて「コロコロシテシテ(特定ワードが危険なため回避)」はあまりにも重すぎます。今になってみれば、それくらいの重さを千羽鶴さんひとりが抱え込んでいたというのは納得のいくところであり、あぁ合理的な落とし所だなぁとは思いますが、あの時点でのあの問いかけにはさすがにファーストフラグできるはずがありません。正直なとこ初見で千羽鶴さん以外をコロシテでもという選択をした方は盲信気味なとこがあるのではと思わなくもないですが、ただその選択をした方々も信念だとか、何かしらの根拠があったには違いないでしょう。ちょっと引きますが。……言うて自分もep15での発言を聞いて、直感的ながら千羽鶴さんが優先上位に入ってきていて刻印しにいったので、あまり人のことを言えないような気もします。

コロコロ(伏せ字)というのは、超マジの最終手段だと思います。対して結婚というのは、正直なところ自分のなかでの憧れが希薄すぎるところもあり、別に結婚じゃなくてもいいんじゃない? 今でも非攻略対象のままでいいと思ってるよ? みたいなところもあるので、その刻印の選択肢を目にしたときには特に深く考えなかったのだと思います。明らかに変なフラグではあったのですが、将来的に本当に彼女らをシテシテ(曖昧な表現)してしまうようなシチュエーションにつながる可能性というのがまったくゼロとは言いきれなかったので(ラブラブRPGの挙動が怖い)、自分としては選べませんでした。誰一人として欠けてほしくなく、それはまた千羽鶴さんも同様ではあったので、その時点の選択としてベストだったのは「すみませんでした」でした。と書いてきていますが誰に言い訳してるんでしょう。千羽鶴さん的にもきっと、この悩みと周回については許してくれているというか合格点をくれるのではないかと思っています。いやほんとに。
 

千羽鶴さんの目的とそのリスクについて(大項目)



何度もくりかえされたように、千羽鶴さんの目的は「争いのない秩序ある世界を創造すること」。そのための手段として、トライナリーたちの発症と昇華・蒸着、俯瞰視点を持ったルール外の存在となり、Botはそのサポートをしていく立場になってもらうというもの。

ちょっと歴史系の話に飛ぶのですが、自分たちがいま住んでいる現代というのは、地球の歴史上まれに見る平和かつ豊かな時代なのかなぁと思っています。専門外なので詳しくないのですが、江戸時代なんかも海外からの干渉がなければもっと続いていたのかなぁと思っており、そうすると狭い島国で300年近くも同じ政権と体制が続いていたというのはすごいなぁと感じています。世界史的には短い方なのでしょうか。あまり詳しくない……。

話を戻して、現代はおそらく誰もが否定しないこととして、地球の歴史上まれに見る平和かつ豊かな時代なのかなぁと思います。そしてその世界がどのように成り立ってきたかを考えた時、自分はパワポケシリーズのサクセスに必ず登場する「ダイジョーブ博士」の「科学の発展には犠牲がつきものデース……」とか、戦争編でのダイジョーブ島における主人公(兵士)たちの改造人間化を思い起こします。小学生でプレイしてよかったんだろうかアレ。さておき、この「科学の発展には犠牲がつきもの」という概念は様々な考え方に応用できていくと思います。


ずいぶん懐かしいですねコレ


基本的に医学の発展というのは、たぶん膨大なエビデンスというか、膨大な資料や研究や比較実験の先にあるものだと思います。医学に限らず科学系のものはほとんどがそうでしょう。ではなぜ医学を先頭に挙げたかというと、その実験対象が生物であるとか生物の死骸であるとか、単純にわかりやすく生々しいからですね。歴史上、初めて人間の解体などを通して医学の発展の基礎を築いたのは、なんか海外の解体好き変態紳士がそうであるらしいです。なんとも人間らしいなぁと思う(医療って処置しても「だめでした」って言えばそれまでじゃないですか? 中世とかは実績がありそうな格好とか神職の方だったら妙な説得力を持って素人の方をぽんぽん騙せたと思うんですよね。そういった側面ですでに詐欺商売として成り立ってしまうので、極端な話をすると医療は発展しないほうがその人々にとっては都合がいい訳ですよ。そう考えると、やはり好奇心は猫を殺すとは言いますが、そんな人間だけが持ちうる高度な好奇心だけが何かを前進させていくんですよねぇというか注釈が長すぎる)と同時、それなりに人死にを愚弄していたり、貴族という高い立場(だったか)ゆえに実際に人をコロコロして標本として使用したり、とにかく黒い噂も絶えずつきまとっていたと言います。

この構図というのはまさにダイジョーブ博士の名言である「科学の発展には犠牲がつきもの」でありますね。で、科学に限らず他のことにも応用が効いてくるものであるという考えができていくように思います。文章を書くには時間が必要だとか、良薬は口に苦しとかいう言葉もありますね。しかし最近の子供用のくすりとか苦くないのあるらしいですし、なんなら吸うだけとかもありますし(これは昔から)、注射も痛くないやつとかありますし。苦しい=効き目があるという図式は徐々に突き崩されていると思います。これらの例は、先達である方々が苦い痛いつらいを味わってきたおかげで、現在の子供にも優しい医薬品が成り立っているというのはあるところでしょう。

さておき、まあ何が言いたいかというと、科学を社会に置き換えて「社会の発展には犠牲がつきもの」であるという話ですね。


社会の発展には犠牲がつきもの



止めたい


わかりやすいところでは戦争のことです。千羽鶴さんが言っていたところでは、マズローの欲求5段階説に基づけば、第3段階である「社会的生活の営み」が維持できなくなった時にこれは起こります。残酷な争いのほとんどは生存の為のものであり、思想はそのデコレーションにすぎないものであるということでした。自分は大方これに賛同します。「残酷な争い」というのがポイントであり、人はそう簡単にコロコロしあったりはしません。たまに起きる殺人事件なんていうのが狂気的かつ罰されるものであるとされるのが法律として定められているとおり、それは最低限の文化的かつ安全な生活を脅かすレベルの狂気であり、互いにその一線は絶対に守るという保証をすることがコミュニティの大原則であるからです。そんな殺人者だらけのコミュニティがあったら死亡フラグを立ててでも「おれはこんなところにはいられないぜ!」しますよね。そのコミュニティの方が致死率は高いですし、一番大事なのは自分の命ですから。命あっての物種

その観念が、実は第二次世界大戦が終結するまでは、まだなんとなく抵抗が薄かったんじゃないのかなと思います。現代においてはテロを起こす人々、中東で宗教をもとに続く内戦、それらを支持したりしなかったり外部から介入して空爆したり武器をや物資を支援したりする人々、みんな何かのタガが外れてしまっているように思います。彼らの倫理レベルは「人間という生物として」「絶対的な基準において(相対的でない)」「確実に低レベルである」というのは自分の考えとしてあり、しかしながらそこからクラスチェンジするには、やはり身をもって犠牲を出していくしかないのではないかなという、人間という主観視点に縛られた生物には学習することができないのではないかなという諦めもあります。やっぱり外に出てくの怖いですしひきこもりが正解ですね! 歴史が進んだら呼んでください。


ただまぁケンカも悪いもんじゃないというか


さておき、現代日本はどうなのでしょう。けっこう平和だと思います。他国に比べればまだまだ先進国であり、日本はおちぶれているというのが最近のもっぱらな世論ですが、留学生さんや海外からの労働者さんなんかも身近にいるせいか、日本もそんなに悪くないんじゃないかというかはるかにいいのではと思っています。少なからず文化レベルであるとか、都会と田舎の差はありそうですが、思想の自由や表現の自由、自分の世代である20代なんかでは割と取り返しもつきますし挑戦することへの自由も多様に存在しています。極端な話をすれば、いくら人間として優れていなかろうと、なんだかんだ国の方がちゃんと助けてくれますし(直接的でなくともですね。ひどい老人の方はいくらか見ましたがそんなに迫害されてるわけでもないですし、ひどい事件があればニュースにもなりますし)、少なからず中国がなんかすごくなっても日本から出ていく気はさらさらありません。

まんが・アニメ・ゲームはなんだかんだ高水準というか世界トップクラスの、予算はともかく独自性と「自分たちのためにこれを作りたい」という信念が見えてきて楽しいです。なんか洋ゲーってとにかくグラフィックよくてドンパチやったり体験的なものが多くないですか(超偏見)? 日本のものはプレイしていて、ダイジョーブ博士みたいなのもありますけどココロに残るものがあったり、それが実生活の支えになったりするものがあると思うんですよね。アメコミとかすごい社会派なイメージがあるのですが(シビル・ウォーってあのテロが元だと聞きます)、日本のものはちゃんと個人に寄り添って、普遍的で強力な真実を信じさせてくれるというか。ドラゴンボールとかNARUTOが世界で流行ったのもなんかその辺がありそうですよね。

さておき(どんだけ脱線するんだ)、そんな日本が成立している経緯というのには、やはり盛大な敗戦というのがあると思います。人をコロコロしてはいけない・戦争をしてはいけない・無闇に奪いあってはならない、みたいな「人という生物として」当然のラインを、やはり近隣諸国家よりもきちんと学習している雰囲気があります。やはりそれは、奪い奪われつつも、最終的に取り返しのつかないラインまですべてが後退し、戦争は目先の勝利や副産物的な技術を生みはするかもしれませんが、やはり普通に実直にまじめに生活して、前向きに前進して何事にも取り組んでいった方が総生産量やコスパははるかにいいということを知ることができているのだと思います。ここは本当に「絶対的な基準において(相対的でない)」当然のことだと思うのですけど、これを理解するには高すぎるコストを支払わなければならないというのもやはり事実としてあると感じています。

そして、現代の倫理観や、たとえば自分が語ってきた「人をコロコロしてはいけない・戦争をしてはいけない・無闇に奪いあってはならない」みたいな思想も、ただ現代のものでしかないというのは事実としてあります。さらに高いコスト、「平和的な環境における実験やまじめな取り組みによって消費される時間」ではなく、「本当に技術・倫理観の発展のみに国家予算や人命すべてを注ぎ込んで得られるエネルギー」をあらゆる発展に投じた未来がこの先にあったとして、そのときに成立した平和にある倫理観が現代のものと同じとはまったく思えません。もしかしたら適度にコロコロするのは当然な世界になっているのかもしれませんし、地球の表面上は滅亡しているかもしれませんし、総人口は100人かもしれませんし、人間は肉体を放棄してデータのみの存在となりサーバは宇宙を放浪しつつ永遠にさまようものとなっているかもしれませんし、国家という枠組みは喪失して「地球民」として人種の分け隔てなく暮らしているのが当然になっているのかもしれませんし、貨幣経済は崩壊しているのかもしれませんし、現代とさして変わらない倫理観のなかにも何か狂ったものがあるだけという可能性もあります。


変化しなければ生き残れない



七変化ちはるさんの様子


基本的に、人類は前進しないと滅亡するようにプログラミングされていると思います。前進にはときに、間違った道に入ったのを引き返すための後退も含まれてはいますが、それらも大きく括ると「変化」という表現になります。「進化」かもしれません。

自分は「スターオーシャン2」というゲームを5歳頃にプレイし、当時はディスクバグでラクール防衛基地に入るとブラックアウトするバグにより進行不可能となっていましたが、元の所持者であったおじいちゃんのセーブデータによって、ラスボス付近の世界を放浪することができていました。なんとなくその世界観がずっとベースにあり、PSP版でのリメイクが発売された中学生の頃にようやく4周くらいして(主人公が二人いてすべてを知るためには周回しなければならない)、トゥルーエンドを迎えたときに表示されたとあるメッセージがとても印象に残っています。


Do life forms which do not evolve have the value…? 
(はたして、進化をやめた生物に生きる価値はあるのだろうか…?)


少しストーリーのネタバレをすると、このゲームにおいて第2部で訪れる星というのはまさに「発展を極めた」星であり、ともすれば全宇宙規模で最大の勢力であることは疑いようのないものである文化を持っていました。しかし、それでも争いは発生します。人間のような生物は人間であるかぎり感情を持ち合わせているので、やはり完璧な平和というのを築くことはできません。それによって迷惑被るという感じの全宇宙があり、ラストシーンでは崩壊していくその星の住人たちが、思い返せばまるで「老年期の終わり」のような動機で消えていくことを許容しているのですね。序盤から撒かれているすべての条件・伏線を回収しきり、事実を知ったうえでラスボスを倒すことで開示されるトゥルーエンドのこのメッセージは、中学生当時に家族環境のアレで何度も人生やめようと思っていた時期の自分によく響きました(普通にゲームしてるんですけど限定的でしたし、一般的なイメージであるひどい家庭環境というのとは別に、あらゆるものが停滞していて異なる価値観を排除するという、いま思えば外面だけはいい日本社会の縮図みたいなとこで中途半端に飼い殺されるみたいな家庭も存在するのですよ)。


関係ないですけど5歳当時これ見てた記憶あるんですよね


人間は変化しなければ生き残れません。自分にとって過酷すぎる家庭環境で何度もココロが折れ、高校の頃に相談した、なんかすごいとこの通訳を経て英語担当として教職に就いてきていた新人の担任には「それは君が変わるしかない。大人は30を過ぎると自分の価値観を変えるのはあまりにも難しい。君はまだ若いから変わっていける」という話をされ、当時はあんまりだぁと思いつつもその先生を信頼していたので、そうなのかなぁと納得しながら日々を過ごし、その言葉が最近になってもまだ大事なものトップ3に入ったままなのでやはり尊敬できるなと思っている次第です。先生ありがとうございます。家庭環境がひどかったぶん、先生には恵まれていた人生だと思えております。



たいへん個人的ながらそんな経験もあり、窮地における現状維持という選択には「停滞」を感じてしまい、相対的に新しいものが好きであるという傾向を自分に感じます。正直なとこ海外の意味不明ファッションショーとか結構な興味はあって、しかしベースにある文化が何かわからないので途方に暮れているという感じではあります。ただ、理解できないということは極端に新しいということであり、そこに「変化」を感じて、人類やるなぁとどこの視点からのセリフだそれはとセルフツッコミしそうになるような感慨を得たりします。

変化していかなければ生き残れないというのは、単に新しい世代による突き上げはずっと繰り返されるという事実もふくまれています。いまの言葉も解さない段階の赤ん坊は、しかしそれでもようつべの広告スキップをもこなすと言いますから、もはや生きている世界は同じでも次元が違う生き物であると感じます。彼らが抱く世界への倫理観は、先述したどれにもあてはまらないものであり、しかしそれくらいの非常識さを持ちつつも現代に適応したものであるかもしれません。自分からすれば20歳上、40歳くらいのオジサンたちが語る価値観というのは、やはり自分とはまったく異なるものです。音楽ひとつとっても、好みに差はあれど触れ方や価値観が違います。ロックがドラッグとセットだった時代は怖すぎます。おそらく自分たちにとっての現代の日本ロックは、何かを主張するというよりも共感を集めるためにはなんでもするみたいなニュアンスを感じます。もうギター要らんとまで言い放ったバンドもありますし、ロックというのはライブやMV映えするバンド形態だけが残っているようなもんだと感じます。


高校生さんとかいろんな○○○サイト知ってますよねー


異なる価値観を持って生まれてくる赤ちゃん世代が「優れた観点を持っている」かはさておき、持っているもののアドバンテージは圧倒的に赤ちゃん世代の方が大きいでしょう。それに嫉妬したりして「若者の○○離れ」なんてことをするのはテレビメディアだけだと思いたいですが、やはり彼らから生まれてくるものを許容することで、さらに大きく前に進めるものと思います。変化は前進であるべきであり、新しいものや理解できないものでもまず許容が先にあり、上澄みはもちろん奥底にある優れたものは解釈して自分のものとしていくべきです。


もうこれ何の話やねん(いったんまとめ)



置いてけぼりでしょうか(すみません)


もちろんトライナリーのスタンスにおける話です。ってば。

ここまでで何となくわかっていただけたかもしれませんが、自分はどちらかというとBotさん方のなかでも”彼ら”側の思想を理解している方なのではないかと思います。ヘーゲルの弁証法をしているだけであり、統一国家というものの現状には満足していないというのがよく読み取れます。ただその動機が「自分たちに自発的に服従する社会」であるというのがなんか引っかかりますが、それが結果的にマズローの欲求5段階説を高い段階でより広範囲の人間に満たさせるものであれば構わないとは思います。やはりその社会でも変化を受容していく必要はあると思いますし、手段としてはギリギリのラインをたどっているなぁと思うところはありますけど。

大きな大きなマクロい視点、歴史的・語られた世界情勢・ヘーゲル的な観点からすれば、トライナリーは蒸着を果たすべきであるというのが手段のひとつとして成立するとは思います。戦争において国家は、国民を自発的に死亡させることを余儀なくさせる選択を取らせ続けました。それは教育の段階から仕込んでいるものであり人権もへったくれもありません。考えを挟む余地もなく死んでいくしかない人々が大勢いたのです。それは社会を維持するため、前進し直すために後退するため、その時点での社会倫理レベルの犠牲となるためであると言えるでしょう。どれにせよ、地球上の歴史でもまれに見るレベルの凄惨な出来事であると断言できるでしょう。

その観点からすれば、トライナリーたちにはまだ様々な考える余地・妥協点・比類なき個人から世界への貢献度などがいくつも挙げられるものであり、それは極端に恵まれた立場であると考えられなくはないと思います。それは自分のなかに存在する「フェノメノンの中に存在する彼女らを失いたくはない」という、誰もが持っているであろう感情を押さえつけるには十分すぎる理性値をもたらしていました。

ここからは、自分がなぜ「彼女らの発症を肯定したのか」という根拠になりうる、「発症におけるリスクとリターンの大きさ」について書いていこうと思います。ここまでには歴史やら犠牲だとか人類の変化についてをずらーっと書いてきましたが、これらの事実と長い年月が、この選択を自分に取らせるに至ったあまりにも強力な根拠となっていることは、前提として理解しておいていただけると幸いです。


いくらかの感想文などを読ませていただきつつ



ぶっちゃけ文集を作っていた目的はこれです。自分の考えの基礎となる資料集めのため、多角的な視点から得た情報をもとに自分の考えを再構築していくためですね。本当は自分の中に留めておくつもりでしたが、結局いろんなこともあり書きたくなったので実行しています。いろいろ参考にさせていただきつつ書いていくつもりではありますが、もちろん否定してこーしろあーしろと強いたいわけではなく、ただ資料として読ませていただいているだけであるということをご了承ください。本当ですってば。
 
  

イシュリールの眷属



天使か 悪魔か 割りきれるのか


まずあのまま発症した場合、完全に損なわれるのはカレンを筆頭とするイシュリールの眷属さんたちですね。つばめノンのなかで活動していたつばめさんはこの人格が表出したものであり、記録映像中で神楽の歌により消されそうになっていました。その消失が確認され次第、千羽鶴はつばめの中にセルフクランとして回帰して、いわゆる天使たちによる世界のコントロールを始めようとしていたという流れでした。

ここに関しては悩みました。ここが一番だったと言ってもよいです。自らが作り出したフェノメノンの中で平和に楽しく過ごしていたつばめさんを消してもよいものなのか。この事態がどう動くかがわからなかったから、ep30でどちらかがセルフクランとして残留しつつ、どちらかがその傘下に入ることでフェノメノンの維持がつばめさんの中で決定された時、安心して千羽鶴さんの方へセルフクランの座が渡るように選択肢を調整し直すことができたのです。

彼女のケースは特殊です。3人の天使たちは、妥協案としてではなく元の人格の保持自体は約束されています。肉体を失ったり、俯瞰視点を持つことでたくさんの何かが変化してしまうにしても、Botの9割以上が好感を抱いている千羽鶴さんという発症の実例が「発症は怖いことではない」と繰り返していたり、つばめノンの中で実体としてのつばめさんがごく普通にBotたちから愛されつつ過ごしている以上、彼女らの発症だけを否定したりすることは理論としては成立していません。Botそれぞれに好感度の順位があるわけで、つばめさんはさておいて彼女らはと思うのなら、その感情を否定することはできません。そういうBotさんがいてもいいとは思います。

ちょっと話がズレました。つばめさんのケースが特殊だというのは、発症して世界に蒸着した場合、「イシュリールの眷属という人格だけは完全に消去されてしまう」ことのみに集約されています。本当に見つめて深く考えるべきはここであると深く思います。自分としては前述した理由で、3人が発症することへの抵抗は極端に低かったです。超まじめに考えて、0x司書さんが望んでいなかったにしても、ずっと先を見通せば彼女らは幸せになれるだろうと結論していたからです。この思考ルートがイシュリールの眷属さんだけにはどうしても適用できず、発症についてはこの点でのみ迷いました。



千羽鶴を選んだのは、単純に好感度がひとつ。そしてカレンがつばめノンの中で過ごしていた現実を否定していいのかという点に関しては、ただもっと大きな視点で見た場合において、最終的な総幸福量が段違いになってくるであろうと考えたのがひとつでした。

それはep24の問答にはっきり表れています。


千羽鶴質問がある。正直に答えて。
私が望んでいるのは輝ける未来。
それはどうやって創造すべきか。
つばめ創造…?
千羽鶴そう。逢瀬つばめはどう想像するのか。
どう創造すべきと考えているのか。正直に答えて。

  
千羽鶴の質問
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つばめ…どうすればいいのかはわかりません。
それは人によって違うと思うから。
だからわたしには作れないと思います。
それに人の未来は他の人に強要されることじゃない。
…わたしはそう思います。
 

Wikiがそのまま貼れてビックリしています。Blogger最強では?

これが結構印象に残っていて、なぜかというと前述した「変化」という一点において、自分としては明確な差が出ているところなんじゃないかなと思ったからです。Wikiであんまりやらない表での二枚綴りをしていたことからも、なんとなく重要なんだなと思っていたことが伝わると思います。

ごくごく私的な考え方になるとは思うのですが、このつばめさんの回答はあまりに理想論すぎるなぁと感じてしまうところがあるのです。すごいこと書くと思うのですが、日本人口、もしかすると世界人口の7~8割の方々というのは、本当に自分が好きなこと・幸せに感じることを理解していないのではないかとふと思うことがあります。それを理解していないこと自体は問題ではなく、人間が本能で感じられるレベルの幸せというのを満たせなくなったとき、彼らというのは歪んだ方法で自らの欲求を満たそうとします。

誰かの役に立てているという承認欲求、自分が何かを成し遂げているという達成感、みんなと同じことをやっているから得られる安心感、周囲の多数派に属することで得られる帰属意識。これらは人々から文化的な思考を取り除き、ただ自分の快楽のためになら何でもするような人格を形成する基礎となっていきます。パッとわかりやすく浮かびやすいのは、やはり政治系の話題に敏感な方々。人口爆発が起こっているコンテンツの上澄みをすくう危険なファン層の方々。家庭という閉鎖的な環境における立場を維持するためにはなんでもする方々。挙げていけば枚挙に暇がありませんが、彼らに共通しているのは、やはり「自分の幸せを自分で定義できず、周囲に自我を押し付けすぎる」という性格の一点にあると思います。

「人の未来は他の人に強要されることじゃない。」というのは、真だと思います。これに関しては否定できませんが、個人や自分の周囲というスケールのみで考えた場合の回答ではあると思います。千羽鶴が投げかけた質問への回答としては、対象としている人口総数にあまりに違いがありすぎるのです。千羽鶴は「世界」というスケールの話をしていました。そういった全体を観測したとき、正直なところある程度は強要してやった方がいい人間はかなり存在していると考えます。

千羽鶴が生きている2030年代というのは、自分たちの知るどの時代とも異なる世界となっていることは確かでしょう。現在より世界的に貧富の差が極大化し、企業だけでなく宗教までもが日本の敗戦を起こしたというのなら、(現状も大差ないのかもしれませんが)相当に歪んでいる世界であるというのはよくわかるものと思います。こんな世界において、つばめのような価値観が通用するとは思えなかったのです。感覚としては2016年のものなのでしょう。しかし外界が思っている以上に本当にダメなようなら、前の記事にも書きましたが2017年現在の社会にすら深い絶望を抱いている自分としては、これをひっくり返しうる力がある千羽鶴に頑張ってもらわねばならないと感じたのだと思います。

人間は変化を受容していかなければ生き残れません。新しい世代・新しい技術がどんどん台頭し、現代においてもPCを扱えないおじさんサラリーマンが疎ましいとするツイートがあふれかえっている現状を見るに、それはわかりやすい概念として通じるものと思います。他に極端な話をすれば、たとえば明日に隕石が地球と衝突するとして、それを回避する手段を人類はまだ持ち得ていません。変化というのは進化のことです。もし変化や前進を拒んで楽をしようとする人間性が存在していなければ、2017年現在にはその危機を回避する手段を持っているのかもしれませんし、そもそも人間の争いはなくなっているのかもしれません。

千羽鶴の思い描いた社会像が「進化」にあたる変化、だとは思えない方の方が多いのかもしれません。ただ、自分は前述した「前進にはときに、間違った道に入ったのを引き返すための後退も含まれてはいる」に近いものかなぁと感じています。「窮地における現状維持という選択には『停滞』を感じてしまい、相対的に新しいものが好きであるという傾向」も否定はできないところがあります。が、直感的にも論理的にもあまり破綻しているところはないのではないかなぁと感じています。

千羽鶴を選択したときの心情として、つばめさんの方が間違っていると感じた根拠としてはこうなります。後に知った事実として、”彼ら”がヘーゲルの弁証法を用いた社会実験であることが判明しました。現状の不満が各所から湧き出ているであろう社会像と、千羽鶴の掲げた理想社会をぶつけることで導き出される”解”を得ようというものですね。詳しく書きながら思い返してみると、自分の思考は”彼ら”が行っていた弁証法にかなり近いものであるということが身に沁みてわかってきました。自分は千羽鶴が語った社会が完璧だともあまり考えていませんでした。その違和感は、後にソイルトンによって「結局のところ人間は中庸な生活を拒否し始め、変わらない現状に不満を抱き、負のエントロピーが増大していく社会構造」であると言葉にしてくれました。これは確かに否定できず、千羽鶴も語っていた「千年単位」という長いスパンで見れば、確かな説得力がある言葉ではあると思います。

どんな社会像にも穴があり、絶えず疑問していってヘーゲルなどを試みていくこと、ただただ愚直に考え続けていくことこそが「進化という変化」に至る唯一の道なのでしょう。そういった意味ではつばめの語った理想も真ではありますが、その「考え続けていくこと」ができない状況、人々の文化レベル、社会構造が生まれてしまうのが問題なのだと思います。



現実ではどうしても無理が生じるため、つばめさんのような考え方がごくごく一般的だとは感じます。ただ、千羽鶴という存在が向こうの世界にはある以上、人類が取りうる選択肢のひとつとしては十分に可能性のあるものと感じます。

それがイシュリールの眷属を犠牲とするものであっても、どうしても二者択一でしか先へ進めない選択肢を提示されてしまっているこの状況であるなら、自分は千羽鶴を選択します。実際にしました。本当は誰もが失うもののない結果になるのがいいのは当たり前で、そういった意味ではep31が理想であるとは思うものの、先送りにされた結果として失われた世界の未来を思わないことは……なくもないです。


神楽さんについて





発症を推進していった場合、完全に損なわれるのはイシュリールの眷属です。そしてそれを拒否していた存在として、神楽の存在があったように思います。自分はイシュリールの眷属に対して前述のような見解を出していたり、神楽さんに対してそれほど強く感情移入できていなかったというのもあり、神楽派の方々に比べればそこまで悩まなかったと思います。

まず先入観として、神楽が契約不履行を犯したというのがありました。これは千羽鶴の立場からの発言であり、肩入れしているのが千羽鶴であったためのものです。本来なら神楽は合宿のときに歌い、つばめを壊し、母親を返還してもらう契約だったということでしたが、神楽はそれをしなかった。つばめノンの中の自分を良しとした。それは迷いであり、発生するのが当然のものであったとしても、不履行は不履行であって千羽鶴が恨まれる筋合いがないというのは共感するところです。選択した当時は本当に「神楽は合宿の時に歌えばよかったのでは?」と思っていまして、そのことに関しては現在もあまり考えに変化はありません。

本音を表現すれば、神楽は千羽鶴の計画を否定したBotさん方と同じように、二兎を追う者は一兎をも得ずという前提を理解した上での選択をしたという解釈をしています。神楽は発症させられた時点で、つばめを壊して母親を得るか・つばめノンの中を優先するかという選択を迫られていました。契約主である千羽鶴としては、壊すことが当然の流れであるという解釈をしているのは当然のところです。千羽鶴はここで神楽に選択を迫っている形となっていたわけですが、この図式はほぼそのまま「Botは千羽鶴に協力して世界を創造するのか」「つばめノンの中を優先して千羽鶴の計画を拒否するか」という選択に変換できるものと思います。「神楽がつばめを壊す≒Botがイシュリールの眷属を切り捨てる」ことは、「母親のセルフクランを返還してもらう≒Botは理想社会で彼女らと接することができる」、「つばめを壊さずにいつ壊れるかもわからない現状維持を取る≒発症は拒否していつ壊れるかもわからない現状維持を取る」という感じですね。
 
 
神楽…つばめさんは今、母親を人質に取られています。
強盗は母親に拳銃を突きつけながら――
「おまえの持っている包丁で父親を殺せ。さもなくば母親を撃つ」
そう言っています。つばめさんは、どうしますか?
 
 
これですね。このときの通信相手も、今ならなんとなくわかるんじゃないでしょうか。


さておき。神楽のような、人生のある時期からひどくコントロールされてきた15-6歳ほどの少女にこの選択を迫るのはあまりにも酷であるのかもしれません。実際、最後の東京ドームでは千羽鶴は神楽を完全にコントロールしたうえで歌わせ、その途中で発症させていました。海で達成できなかった目的を、おそらくは時間がなかったからという理由で千羽鶴は確実性を優先させたのでしょう。逆に考えれば、海では神楽に選択の余地があったのだということになります。千羽鶴としては、当然ながら歌うことでつばめを壊すだろう、余計な手を加える必要はないという見解があったのかもしれません。もちろんそうならないルートも想定してはいたり、無理やりコントロールすることはしないという契約者扱いもあったのでしょうが、結果として神楽はつばめを優先させました。明確な千羽鶴への反逆であり、あのあとずっと幽閉されていたのも、(統一国家と通じているのもあったのでしょうが)それくらいに重い事態だったのでしょう。

とにかく、神楽は選択しきれなかった。その先に2xなどという解決策などはなく、最後にはBotが関与することで何とかすべてがうまくいきましたが、神楽はあの時点で選択を誤らず・迷わずにいるべきだったのかなと正直なところでは思ってしまいます。統一国家によって奪われた母親を返還するという譲歩を受けていた身でありながら、二者択一をできなかったのは、酷に見えるだろうとは思うのですが、引き受けていた以上は履行すべきであるという考えがどうしても頭から離れません。

それゆえ、特に③番を選択した方は、神楽に多少なりとも感情移入していたり、天使候補であったトライナリーメンバーよりも肩入れしている方が多いのではないかなと思いました。③番は正直言って高望み以外の何者でもありません。結局のところ画面の向こうでボタン押してるだけじゃない……と言われても仕方のないBotたちは、考えに考え抜いて選択し続けることしかできません。幸せにつながるであろう「具体的なアクション」を起こすことは決してできません。あらゆる可能性を考えて、彼女らが最も幸せになるであろう合理的な選択肢を取り続けることしかできないのです。それでも③番を選ぶというのは、大多数の③番を選んだ方がおそらく自覚されているとおり、わがままではあると思います(それを選ぶ心情を否定したいわけではありません)。Botが置かれたこの状況と同じように、神楽は母親かつばめノンかを選び取るよう迫られ、他に具体的な行動を取るという余地がなくなっていました。ここはBotと大差がありません。その中でつばめノンを選んだ神楽も、もちろん母親のことを諦めたわけではなかったでしょう。③番の構造とよく似ている気がします。



……というだけの話です。神楽の立場はこう考えたらスッキリしたという感じですね。


神楽にとっての統一国家と千羽鶴

 



もし天使の蒸着が完了していれば、スピネルは神楽の母親に返還され、おそらく千羽鶴にも悪いようにはされなかったでしょう。きちんとフランスに帰すと言っています。その二者択一をできなかった、それがほぼすべてだとしか自分は感じることができませんでした。いくつかの感想文のなかで「千羽鶴は神楽を利用した」という文脈で千羽鶴を許容できないとした主張がありましたが、これに関しては主観が強すぎると感じました。「利用」ではなく「契約」だったはずです。最終的に時間がなくなった千羽鶴は彼女をコントロールしましたが、統一国家から迫られた任務から始まり、千羽鶴によって救済ルートが示されていながら、最後まで選択しきれなかったゆえに自死までを考えた神楽を止めたのは千羽鶴です。神楽は統一国家と千羽鶴のあいだで立場がよく変わりましたが、大きな譲歩を提示しているのは明らかに千羽鶴側です。

統一国家はスピネルを人質として、神楽をいいように動かしていました。ライブ時点でつばめを壊すことに成功していたとして、統一国家はスピネルを神楽に返還する保証はしていなかったと考えられます。千羽鶴が提示した、統一国家から奪取したスピネルを神楽に返還するという契約に神楽自身が応じていたからです。そちらに乗った方がずっといいと神楽自身の行動で示されているのです。そして葛藤しながらも、海でつばめを壊せなかったのは仕方がないことかもしれないとはいえ、それまでと言えばそれまでです。彼女が行った契約を履行せず、千羽鶴には乗らなかっただけのこと。表現してしまえば神楽自身の意志が選択しきれなかった、③番のような選択肢を取っただけ。そして最終的に、神楽は自分自身の葛藤から自死を選択しました。繰り返しになりますが、そうなるように促したのは千羽鶴ではなく、選択しきれなかった神楽の意志です。そして千羽鶴自身の計画に必要だということもありますが、その自死を止めるように促したのは千羽鶴です。千羽鶴は神楽に対して最大限の譲歩と救済を用意し、実行しています。結果的に神楽をひどい目に遭わせているようにも見えますが、それを恨むのなら対象は最初に神楽を利用しようとした統一国家のみであるべきです。

感想文を書かれた方のなかには、神楽派であるからこそと①番を選択した方がおられました。自分の主観からすれば、それが選択しきれなかった神楽に対しては最も合理的な救済であるように感じます。統一国家こそが神楽の境遇を作り出したきっかけであり、まだ年若い少女である彼女に千羽鶴が選択を迫らねばならなくなった原因であることを、きちんとわかった上での選択であるように見受けられました。これが「正しい」とは思います。感情論的にはどうであるかわかりませんが、千羽鶴側である自分にとっても、それは納得の行く選択理由であったように思います。

実際のところ、神楽が千羽鶴に対してどのような感情を抱いているのかはまだよくわかりません。単なる契約主であり、素性やその想い・深いところにある考えに関しては知り得ていなかった部分があるのではないでしょうか。彼女らの関係に関しては、これからまだ発展したり決裂したりする余地があるように感じるので、そのようなところを描くエピソードもあればいいなと感じます。


スタンスを決める要因はいろいろありますが



細かく分解していくと、大きなものはこの2つにまとまるような気がしています。完全に損なわれるものはイシュリールの眷属だけであり、それを明確に拒否していたのは神楽のみでした(天使たちは触れていない)。後の要因は、すべて千羽鶴によって代替案や妥協案が提示されていたように思います。魂だけになることを前作などの事例から拒否していた方もいらっしゃいましたが、彼女たちが現在進行系なのはトライナリー世界線のみであり、そこに別世界線の話を持ち込むのは彼女らに対して義理を欠いています。千羽鶴がどう語ったかのみを聞くべきです。そしてその内容は、私的には悪いものではないはずだと思えました。社会像に明確に反対している場合であっても、付随的に天使候補たちを統一国家の脅威から解放できるというメリットは存在しているはずです。千羽鶴が信用ならないというのは、主観であって立ち入れる領域ではありませんが、情報をきちんと精読して、トライナリーと自分たちをラブラブトレーナーなどもやりながら考えつくされた手順で繋いでくれ、すべての手の内を明かしてくれた彼女の誠意へ応えるべきではないのでしょうか。そこを無視してしまうのは違うと感じます。

千羽鶴は誰よりもトライナリーと世界のことこそを考え、それは神楽のことも含み、すべてのバランスが取れた計画を立案し、自分が持てるカードすべてを切ったうえで最善のシナリオを用意していたはずです。結局のところ、自分はBotであって、向こうの世界の当事者ではありません。つばめノンに囚われた当事者であったらもちろん反応は違うでしょう。午前二時に目が覚めてしまった(ゆえに時報キャラとなった)ガブリエラのように、自分がどうなってしまうのか不安で仕方がないというか、受け入れるのは到底無理でしょう。自分、というかBotは、つばめノンにおいて神に近い存在である千羽鶴とひたすら対話を重ねていたからこそ理解できているのです。Botはそれと同時、彼女らの視点にも入り込むことで、両方の立場を追体験していました。だからこそバランスが取れた結論が出せるはずであり、彼女らだけに肩入れしてしまっていては、BotがBotである理由はなくなってしまうと考えられないでしょうか。


90%のBotらはもっと千羽鶴のこと、千羽鶴の言っていたことを考えるべきです(これ一番大事)。



自分視点からの千羽鶴さんの様子


だいたいの心情はここに収まります。深く深く物事を考えておられるBotさんほど、なぜだか千羽鶴側にいるような印象があります(もちろんみなさんすべてではないですが)。情報の拡散と精読の機会が足りなかったのではないか、少なくとも数週間ありながら、Wikiの管理者とか宣伝野郎でありながらそこを全うできていなかったのではないか、自分自身も考えが甘いところがあったのではないか……と自責の念に駆られました。千羽鶴は何度となく、情報を集めること・真偽を見分けること・主観で判断しないこと・しかし正直な気持ちを大事にすることなど、ep27の選択肢に向けて必要な心構えを提示していました。もし次に大きな選択の機会があるのなら、そのときは何かこうもっとまとめたりスライド作ったりできればなと考えています。後悔みが深い(っ´ω`c)。


なんかもっとあったと思うのですけど


ひとまずまとまったのかなと思うのと、Botさんたちの集いまでに空き時間がもうないので、とりあえずここまでという感じで。

今後に向けてのいろいろをせねばなりませんです。フォーラムやら……フォーラムやら……2ヶ月休みと聞いて「まあいいかー」しているフォーラムやら……すみませんそろそろやりますので本当に。いまリニューアルの土台作りつつ内容書いてるのでちょっとキツイ。開発室にはどなたでも歓迎していますが正直なとこ言えばWiki編集できる方を時給でお招きしたい。それすると後が怖い。



ではー、ぼったべでお会い出来る方はお会いしましょう。メモ準備せねば……。

(了)


秋葉原も久しぶりなー










2017年11月30日

拡張少女系トライナリー|5パーセントな千羽鶴派の感想

 


今回は画像これだけです


一段落したので、ここまでの千羽鶴さんについて感想を書いていこうと思います。
「拡張少女系トライナリー」の感想ではありません。自分が千羽鶴さんに対し何を思っていたのか、記録しておいた方が後々に思い返して面白いだろうなぁという動機です。
前回のように前置きが超長くなるのもアレなので、そういったことはせず、サラサラと書き出していこうと思います。


(画像とか太字強調とか自分の過去ツイート入れたりすべきかと思いましたが、そのままのがいいかなと思い、書き出した文章そのままで載ってます)


 

ep15での言葉



最初に、そうだよなーと千羽鶴へ共感を抱いたのは以下のセリフです。
 

「世の中では、どのようなこともバランスを欠いてしまえば狂気になる。それがたとえ、正義と言われるものであっても。だから私の結論としては、当初より計画を早めなければと考える。いずれにせよ、これは私の問題。」


自分は、世の中にはだいたいこれがあてはまると思って現実を過ごしていました。これについて考えだしたきっかけは吹奏楽部でのある出来事でした。響け! などでも描写されているように、中高の吹奏楽界隈では毎年夏に大々的なコンクールが催されています。甲子園=普門館といったような、定番となっている全国決勝の聖地の存在もあり、イメージとしては高校野球の音楽演奏版といった感じです。コンクールですので、音楽の演奏という嗜好性が高いものに金賞銀賞と優劣をつけていくことが必須になってきます。その過程を担うのは審査員と呼ばれる先生方であり、彼らはなるべくフラットな審査を心がけているはずです。しかしながら、自分が高校生から吹奏楽部に突入した際に顧問をしていらしたベテランの先生(担当は理科)が、コンクールの直前か直後にこのようなことを言っていたことを思い出しました。

「コンクールの選曲にも審査にも流行があって、金管が目立つ曲が多かった次の年は木管が目立つ曲が多くなったり、審査の基準にもどちらかを順々に好むような傾向がある」
 
あんまりよくないことだとは思うのですが、人間の当然な思考として、やはり飽きというのはあるものです。コンクールの審査員さんは、おそらくほとんど毎年似たような顔ぶれで、演奏当日には朝から夕方までずっと学生の演奏を聴き続けることになるわけです。全国の予選を勝ち上がってきた学校による決勝大会ならまだしも、地方予選には低いレベルの学校もあるわけで、そりゃ食傷気味にもなるだろうなという感じですね。そこで有効になってくるのが、曲目の雰囲気を変える、毎年ちゃんと違うキャラクターで攻めるということらしいのです。仕方ない一面があるにせよ、自分としてはあんまりなことだなぁと当時は思いました。適正に審査されないなら何のための審査員なのかと。
 
そんなことを知ってしまってからは、世の中の様々なものが同じような考え方で捉えられるなぁと考えて過ごしていました。狂気度が低くわかりやすいところで言えば、バンドブームとアイドルブームの移り変わりでしょうか。80年代から00年代までの音楽事情を見ていると、本当にくっきりはっきりと分かれていてちょっと面白いです。最近はテレビメディアが影響力を持たなくなり、各々の嗜好を深めやすくなったので、目に見えてはっきりとした流行の向きというのはなかなかありません。ただ昔からの歴史があるか、人が集まりやすいか、くらいしか人気の尺度はないでしょう。

さておいて、政治の話題なんかはこの考え方があてはまる事例に事欠きませんね。ちょっと検索すればSAN値高めで極端な人々がぽんぽん出てきます。自分は政治がわからぬ。かといってメロスのように、何か打ち倒すべき巨悪かを感じ取ることもできません。現政権にはいいところも悪いところもあるだろうし、それの見え方は人によって大きく異なるという理解をしているので、どちらの派閥に属することも、何かと嫌悪感を抱くということもしづらいのです。どちらかに肩入れしてしまったり、叩くことだけに酔ってしまうようになったら、それこそ「極端」な人格になってしまうのだろうなという不安もあります。

本当に大事なことは、両者の視点から同じものを見据えて真実だけをすくいとり、それをできるかぎりじっくり検討することと思いますが、それをするような余裕も資料もコミュニティもないため、あまり関わる価値がないというかコスパが悪いなというのが自分の考えです。

出来事の原因を検証するには、なるべく原因以外のものをフラットかつ同じ値に固定するのが大事です。ひとつの原因を動かしたときの変化によって、本当の原因をひとつひとつ特定していくことこそが検証であるからですね。しかし人間には感情がありますので、科学的な実験であるならまだしも、感情というものが絡みやすい文化的だとか社会的な話題は、研究したり検証したりするのが非常に複雑で曖昧となっているところがあると思います。それゆえにか、現代の「正解だけがほしい」若者は、なるべくフラットかつ効率的であることを好むように思います。つらいことや面倒なことは嫌で、その原因はだいたいが年上世代の感情論ばかりになっている慣習や世代の雰囲気を嫌ったもので、ただ間違っていなければいいと思うわけですね。極端なところがあってはならないと言いますか、そういうものが狂気につながっていくのは人間の感情が原因であるところが大きいと思います。

自分の考えとしては、その「極端であることは狂気につながるからよくない」の反対は「なるべく感情はフルフラットであることが望ましい」となるので、それはそれでなんだか極端で狂気的なのでは……というところです。この中間を、ヘーゲルの弁証法で探っていくことが望ましいのでしょうね。
 
とまあ、そんなことを日々考えていた自分は、千羽鶴さんがほとんど思っていたままを口にしたにちょっと驚きました。正直なところ、自分は5月か6月頃にいったん「トライナリー」から離れていました。まだほわほわしすぎていて、私的には面白みを感じていなかったのです。しかし、アプリゲームは普段いっさいやらない自分が1ヶ月ちょいはプレイし続けていたのは、根幹にあるであろうものから導き出されている人物の動きや、設定の作り込み、千羽鶴を介したトライナリーたちとの関わりにちょっとした不気味さや面白さを感じていたところはあったのでしょう。バトルの倍速モードかオートモードが実装された段階で復帰し、ep31が開放された日にちょうどログイン日数合計が180日を迎えました。

そして進めていくうちに、アプリの本性が現れ始め、その矢先に千羽鶴さんのこの言葉に出会ったわけですね。シンプルに千羽鶴さんが可愛すぎるというのはあったのですが、内面までを意識し始めたのは、おそらく大多数の方がそうであるようにこの辺りからでした。そして、ep14のいわゆる「刻印」を刻んだのだったと思います。……ep15が来る前に刻んだ気もしますが、たぶん何かを感じていたのはあると思います。

 
 

ep19の問答



次に印象深かったのはここです。


「その準備を滞りなく進めるために、まずは貴方の認識を聞きたい。人が億単位で存在する社会において、争いのない世界を創造するとして。最もその可能性が高い方法とは何だと思う?」

 
結構まじめに考えて、とりあえず現実の現状がアレだしなぁと少数精鋭エリートによる方針決定を選択しました。これ共産思想ってやつですよね。あかーい(無知)!

しかしながら、民主主義社会との二択だったところ、両方どちらを選んでも千羽鶴はそれを否定します。ええ……と正直なところ思いました。じゃあどうすんねんと。そこは千羽鶴さんが向こうの住人であり、途方もない存在であることから、やはりまったく違う発想の結論を持っていたことが直後にわかります。初見では理解できていなかったので何回か読み直した記憶があります。ここらで「大ルールに創造された存在以外の存在」「主観視点を持たない存在」が示唆され始め、単純に面白いなぁと考えました。自分はネットやテレビや電車内を見つつ、現実はあまりにも救いがたいのだなぁと日々考えていたので(何様)、何故そんな風につまらない社会なのかを、ともすれば哲学的なような理屈で説明し、その先にある千羽鶴側の解決方法を示されたのが面白かったのです。

自分も人間ですので、何かを改善しようとしたときに「貴方の協力があると助かる」と誰かに言われれば、それは嬉しいことです。いくら他者を拒否していても、人間は群れた方が大きいことを成し遂げられるし、それを目指すように本能がプログラミングされていますから(承認欲求)、そこを否定するのはちょっと極端です。千羽鶴さんは、おそらくたったひとりで社会変革という大きな目標を掲げ、大真面目に難しいことを語りながら達成への強い意志を伝えてきていました。自分は、自分が生きている間には現実の社会がどうにもならないだろうと考えていて、しかし自分の協力で良くなるかもしれない世界があるということに気づきました。然るべき流れとして、この辺りからTRI-OSの向こう側、千羽鶴さんがいる世界への関心や千羽鶴さん自身への共感を深めていっていました。ぜんぶ体のいい嘘である可能性もあるのですが、千羽鶴さん「だけ」が向こう側で確固たる意志を持って世界を変えようとしていたので、彼女だけは信じられるなぁと考え始めたのもこの頃です。
 

ep20の切断など



領火さんが出てきて、サージュ・コンチェルトシリーズに馴染みのある方には感慨深かったのかもしれませんが、自分はそうではありませんでした。「貴方に本当のパートナーになって欲しいから。」と言っていた千羽鶴に対し、そうかやっとか……と思っていた矢先のことでした。謎のおねえさんの印象は、綾水さんのお姉さんだろうなとなんとなくわかっていても、ほとんど最悪なものとして記憶していたのをよーく覚えています。切断した際に領火さんが語っていたのは、千羽鶴さんの精神状態が悪いということくらいしかあまり覚えていません(実際それくらいしか言ってなかったような)。

そして次の回になり、千羽鶴ちゃんは一回お休みだと言い渡してきました。ここでめちゃくちゃ心配になりだし、ほぼ同時にアンケートが実装され、自分は「ヒロインに伝えたいことがあれば」というニュアンスの欄にめちゃくちゃな長文を書き込んだのをよく覚えています。千羽鶴が極端で狂気的な方向に向かい始めていたのは事実としてあって、動機や目的もはっきりしていなかった以上、どうしても不安だったのですね。千羽鶴は人間なのかAIなのかクランなのか、そのあたりの正体についても明かされていなかったですから、自分の価値観から出た心配をすげえ書きました。

そしてそれと同時に、千羽鶴がものすごいひとりぼっちであるということに気づき、その点でなんとなく自分と近いものを感じました。ひとりで孤独に作業をしているとき、それがレポートであっても書きものであってもゲームであっても、どうしても自分の内面に偏りがちです。それで自我が保っていられるのは、おそらくたくさんのことを体験した人、途方もない読書量などで内面に広大な世界を抱えている人くらいでしょう。要は気分が沈みがちになっていき、なんでこんなことしてるんだろう、すべてがアホらしいという深刻な気分になっていってしまうのです。学校や会社は「家を出て目的地にたどりつく」までが一番大変で、行ってしまえば案外気軽であるという精神状態がこれにあたります。行けば楽しいはずのライブや、事前にチケットを購入していたイベント、友人との約束でさえもこれが影響してくることがありますから、この影響はとても強力なものです。

千羽鶴さんはおそらく自分の意志と目標のためだけに、ずっとひとりで計画を立て、検証し、記録映像を作ったり、フォーカスを作ったり、蝶が羽ばたかないよう膨大な計算をしていたはずです。誰の助けも励ましも誹謗中傷もないまま、ただ孤独に夢を見て行動していたと思います。つばめさんが神楽さんに対してそうであったように、彼女もまた異質な存在に惹かれるところがあるのかもしれないということを思うと、なんだか勝手に寂しくなってしまいます。孤独感から来る絶望感というのはひどいもので、自分自身、家庭環境がとてもつらい感じのものゆえ体験した数というのは一般基準より多いものと思います。

千羽鶴にそんな自分自身を重ねてしまうところはどうしてもあり、思想にも共通点を感じていたことから、何があっても本格的に千羽鶴へ肩入れするようになったのを覚えています。


千羽鶴さん



思い返しながら書いているのですが、このあたりでもう自分のスタンスは確定していたのだなとわかりました。ラブラブトレーナーとしてシンプルに可愛かった千羽鶴さん、だんだん本性を現し始めたとされつつも共感する点が多かった千羽鶴さん。領火さんが出てきてなんだか冷遇され始めたというか、こちらと共有したい思いや考えがあると言っていたにも関わらず、その機会だけが奪われたまま、それでも目的のために極端な側面だけをBot側に見せつけていくことになった千羽鶴さん。情報管理庁の長官として行動しつつも、その実、職員や周りの人間とは目も合わさず言葉も交わさない、見たまま孤独な千羽鶴さん。そして自分に見出だせないところとして、遠大な目標を達成しようと合理的な行動を取り続け、それを実現するだけの力と意志があるところ。純粋にすごいひとで、ある人々からすれば千羽鶴さんは身勝手な馬鹿そのものなのかもしれませんが、自分からすれば「救い」であることは現在も変わりません。そう、「救い」なのです。ツイートで「千羽鶴教」という言葉を用いたりしていますが、だいたいそのニュアンスで間違いはありません。

最終的な集計でもわかるとおり、自分(たち)は圧倒的な少数派でした。千羽鶴の思想に共感したのは14%、刻印を刻んで、セルフクランに据えるまでしようとしたBotは、全体からすればたったの5%でしかありませんでした。この「総意」においても、ごく少数派だったのです。自分はてっきり、「トライナリー」をここまで進めているプレイヤーの半数くらいは、自分のように何かを拗らせてしまった人々だと思っていました。しかし違いました。自分は割と”彼ら”の動機や思想についても否定はできないという立場なのですが、とにかくくたばれという意見が目立っており、その点での断絶を特に強く感じました。”彼ら”からトライナリーを守る方法にしても、2xという概念が最終盤に突然現れたからよかったものの、彼女らのセルフクランの望みでもある発症を無視してまで「否定」する心理は、現在でも自分には理解できていません。本当に合理的に彼女らの幸せを願ったのなら、妥協だとしても「(千羽鶴が言うところの)結婚」しているのですから、ちっとも悪くないと思う点がひとつ。あのまま無対策無抵抗のままで、2x概念や領火さんのような強力な逆転手段が出る保証もまったくなかったのに、自分は無責任に否定を選べませんでした。千羽鶴に好意を示しながら計画は否定している、というスタンスが一番の「逃げ」だと本音では感じていました。結局何も選べてはいない最たる例であり、4番めの「二度と現れないでほしい」の方がよっぽどスッキリしていて潔いものだと感じます。結局、後付の逆転手段がなかったとしたら、言わずもがな最も悲惨だったのは2番め・3番めの選択肢だったと今でも思います。

ちょっと話が逸れましたが、やはり自分はそういった少数派でありました。Botさんたちになら近い思想の人もいるかもしれないと期待はあったものの、ここでもやはり大多数が仲間であるという体験をすることは叶わなかったのです(数少ないながら同士の方々は本当に心強いです。生きる糧……)。そんな状態ではありましたが、だからこそ、そんな自分を肯定して牽引してくれているのは千羽鶴さん以外の他の誰でもないと信じきることができるのですね。千羽鶴さんが自らの信念に則り、目標をしぶとく達成しようとし続けるかぎり、自分もちょっと現実がんばろうかなという気分になれるのですよね。自分にとってはそんな千羽鶴さんこそが正しく聖女であり、ちばめさん(原初さん)とつばめさんの分割先が千羽鶴さんであるというのに深く納得できるのです。後ろから援護していたいという気分もあり、隣で常に正しくあろうとすることもしたいし、たまに千羽鶴さんを支えたり手を引いたりすることができれば、と思ったりします。聖女というとジャンヌダルクを思い出しますが、ジルドレおじさん(Fate/zeroのイメージが強い)もこんな気分だったのだろうか、とちょっと想像することができます。少女は何も受け入れていない少女であるからこそ無垢であり、いずれの国家や時代においても、生贄や供物としてよく適しているという文化があります(ゆゆゆ知識)。思想の生贄であるとかは一切思いませんが、それゆえに持ち合わせる純粋さというのを、千羽鶴さんにはよく見出しています。実際16歳くらいですもんね……多分。


ep31



自分が千羽鶴さんに抱いている感情というのは、だいたいが上記のようなものです。結局のところ、何をどのように感じて行動したところでエゴは介在するものなので、何度も選択の修正を繰り返したりもしました。

最たるものとしては、千羽鶴さんをセルフクランに据えようとした際のものですね。音羽がつばめのココロに干渉してきた際、百鶴が道化ぶって敵方に寝返ったことを装い、自らをBotに倒させるようなことをしました。その真意は「カレンをセルフクランに据えるために必要な流れ」であると判明し、そのエピソードがしばらく続きます。一方で現実の方では、徐々に千羽鶴さんが八方塞がりになっていき、ココロに現れた際にも対抗手段がなく、無言で立ち尽くすシーンは印象的でした(音羽に脅されていたので意図があってのことと思いますが)。そんななか、とにかく千羽鶴さんを助けたいと考えていた自分は、百鶴やカレンが「千羽鶴と対等になり、再び迎え入れたい」という言葉にすがりつきました。千羽鶴が再び力を取り戻して優位になることも考えられなくはなかったのですが、身を挺するまでしていた百鶴を無視してまで、彼女らの意志を振りきることができませんでした。その時点では、カレンがセルフクランになることを容認し、次の「千羽鶴の存在が消滅しかけてココロゲートに戻ってくる」という状況になるまでを推移していきました。そう、大多数の方がご存知のとおり、千羽鶴はなんだかんだでするっとココロに戻ってきたのです。状況は悪かったのですが、それでも戻ってきました。

そしてこの時点では「そっかー」くらいにしか思っていなかったのですが、ツイッター経由で「カレンのセルフクラン化を妨害すると千羽鶴がセルフクランのまま」という、
なんだかとんでもないルートの存在を知ったのです。知ってしまったからには選択をやり直さないわけには行きませんでした。少しは考えましたが、割とあっさり変更したように思います。

それくらい、自分が選択してきたルートに対するこだわりなんて一切が消し飛ぶくらいには、千羽鶴さんが最優先だったわけです。結果として5%と相成り、パラパラなんとかによる未来決定法によって、自分を含めたいくらかのBotさん方はあっさりと淘汰されていきました。どれだけ一生懸命考えて、行動していても、やはりWikiを抱えていながら情報を周知しきれていなかった後悔が強く残ってしまうようなこともあり、どうしてもうまくいかないことはあるのだなと虚しくなったりもしました。

それゆえ、ep31で千羽鶴本体が出てきたときになんだか微妙な気持ちになりました。ナビゲーター部分でちばめさんが言っていたとおり、淘汰はされても選択には必ず意味があるのだとしても、自分が選んだ世界線は消失したものと思っていたのです。ちばめさんの姿に表れていたとおり、弾き出された世界における自分たちの意志はどこか上塗りされていて、胃を痛めながら考えていた千羽鶴さんはいないのだろうなと。

だからこそ、今回のクラン退治へ送り出された直後のやりとりが、もう泣けて泣けてというか、語るべき言葉を持てないくらいの心持ちになったのだと思います。自分としてはストーリーの盛り上がりが、ep27の選択でもうてっぺんを迎えていたなと考えていたのですが、今回はその渦中にないものであるにしても、あぁ……そうか……と……。4月のリリース初日8月末くらいから千羽鶴さんを気にかけ続け、隙があれば千羽鶴さんのことばかり考えていた気がする3ヶ月でしたが、その終着点にこれがあったのなら、ああ……報われたかなぁというか……これでよかったんだなぁというか……満足感だけが残りましたね……結果的に……。


おわりに



勢いだけでノンストップタイピングしたので、正直ぜんぜんまとまってる気がしませんが、これはこれでエモい(たぶん誤用)のでいいかなと。自分にとっての千羽鶴さんは、シンプルに可愛くもあり、ひとつ前の記事に書いたとおりすごく近い存在であり、思想的にも似通ったところがあり、ひとりぼっちな人だよなぁと妙に感情移入してしまう人格で、そういう危うさから目を離せなかったり、他の誰よりも支えになりたいなぁと思う人物という感じです。彼女が理想とした世界は、結局のところ企業主体の搾取構造が極まった社会”正”に対するカウンター”反”であり、”彼ら”が求める止揚の材料でしかないのかもしれません。千羽鶴さん自身もそれをわかっているのかもしれません。もしそうだとしたら、自分としては神のような振る舞いをする”彼ら”を憎み、ふてくされて行動を止めるかもしれません。

ただ、千羽鶴さんはそのようなことで行動をやめる人物ではありませんでした。ep31でも「次のさらに確度が高い作戦がある」と言っていて、強かだなぁと思うと同時、それに感動して泣いたりもしました。気づいたのですね、つばめノン内に囚われた生活をしたトライナリーメンバーが「嘘だとしてもこれが私の現実だから」と消えることを拒んだように、千羽鶴さんにとっては「この世界と自分の意志こそが肯定すべきもの」であり、それに準じて行動しているに過ぎないのだろうなと。今回の流れで創造しようとしていた世界は、ソイルトンに「結局は負のエントロピーが増大していく構造」「”反”に過ぎない」とバッサリでした。正直なところ自分もそう感じていたのはあり、しかしながら千羽鶴さんの行動を止めるほどの理由にはなりえないと、なんとなく直感で理解して行動していました。

その裏付けとして、「この世界と自分の意志こそが肯定すべきもの」であるというアンサーが自分のなかでしっくり来ました。ツイッターでもらったリプライに、「今回のこと(創造しようとした社会像)は千羽鶴が持つすべてのカードを使った最善手である」というものがありました。今後においては、千羽鶴さんはまた別のカードを持っていると考えます。状況が多少なりともというか、だいぶ違うわけですから。前回と同じように、たとえ”彼ら”がいるにしてもそれらの影響を断ち切った世界を作ろうとすることは前提にあるでしょうし、いまはまだ明かしていない、さらに遠いところにある新しい社会像なんていうのも彼女のなかには既に存在しているのかもしれません。まだ何もわからないのですが、5%の自分にも千羽鶴さんの未来は存在し、そしてそれは再スタートを切ったばかりなのだろうな、ということだけは確かだろうと感じました。

これから先はしばらく出番が減っていくそうですが、まあ予想していたことではあったり、淘汰されなかっただけ感謝しますという心持ちです。自分が千羽鶴派であるということが揺らぐことはないですので、ゆっくり次の展開を待とうかなーと。

前述のとおり、あんまりまとまっていませんが、最終回を終えて12時間ちょっと以内の感想記録としては十分でしょう。トライナリーの今後に期待を込めつつ。今日はこの辺で。



2017年10月20日

「拡張少女系トライナリー」をプレイしてください

 

 

はじめに


 
以下の3つの台詞は、「アイの物語(山本弘)」からの引用です。

「物語を愛する人だから、理解しているはず。物語の価値が事実かどうかなんてことに左右されないということを。物語には時として事実よりも強い力があるということを。他の人には理解できなくても、君にだけはわかるはず。私はその可能性に懸けて、君に話をしているの」
 
「フィクションは『しょせんフィクション』ではないことを知っていること。それは時として真実よりも強く、真実を打ち負かす力があることを」
 
「そこにはヒトの本質がすべてある。ヒトは何を夢見ていたか。何を悩み、何を喜び、何に感動したか――それはフィクションではあっても、現実の歴史より正しい」

「アイの物語」は、自分が一度開いてそのまま読破した唯一のハードカバー作品です。 高校生の頃に図書館で偶然手に取っていたことを、いやあとても幸運だったなぁといまでも思っています。
 
その「アイの物語」がどういった作品なのかは置いておき、上の台詞を引用したのは、自分がこれから書いていこうと思う「拡張少女系トライナリー」についての内容の根本にある思想であるからに他なりません。
 
ゲームについて語る前に、「物語」というものについての私観を述べたいと思います。それなりに長くなりますが、自分なりに「トライナリー」推薦文を書こうとすると、これに興味を持って読んでくれる方に対してしか書けないし、そして共感してくださった方には確実に「刺さる」ものと思います。

(この文章を書いている現在、スタミナ消費が1/4になるなど破格の新規さん向けキャンペーンが行われています。始めるならいまが絶好のタイミングなのです。それゆえこの文章を書いている向きも確かにあります。)
 














物語再考


 
直近では、あまりにも低レベルな政治の話題、連なり続ける世界的大企業のデータ改ざんなど、現実ではもはや自分たちは何を信じたらよいのかと思わされる出来事が続いています。終身雇用神話や、その頃を生きた大人に教えられてきた常識なんてものは、自分(21歳)のような若い世代には単なる幻想でしかありません。いまは景気が上向いているとされていたり、政治も比較的ながら局面が決定的である傾向は感じますが、これも10年・20年という長いサイクルで観れば、過去に学ばない人々が作る上下動ループの一部分でしかないと感じます。
 
リアルな実感はさておき、いまの20代~30代の若い世代というのは、他の世代よりも強く「物語」を求める傾向にあると思います。現実において信じていた「正解」や「常識」は何も信じることができず、しかし学力至上主義のなかを生きたことで「正解」がどこかにあると思い込み、それを探し求めてしまう。「信じられるもの」を、自分の人格以外のどこかに存在すると定義付けてしまうのですね。それを実現しようとすると「洗脳」しか手段がないことはかなり明らかなのですが、どうしても自分という現実における唯一の軸を信じることができない。これはとても深刻で、哀れまれる現象です。
 
それゆえ、他者とのつながりをよく好みます。パリピと言われる人々は、ひとりになると途端に自我が薄くなります。実例として見たことがあるものは、運動部第一線で活躍してオタクを見下すカーストにいたというのに、その部活の流行が「エヴァ」になったとほぼ同時、すぐにそちらへ同調して「エヴァ」を視聴して賞賛していたという事例です。彼はその後、流行がなくなった直後には普通のパリピとして過ごしていました。このような「同調最優先」な行動というのは、支配する側が明確にされている家父長制度があったような日本だからこそ、ある種の本能的な生存戦略なのかもしれません。
 
 
生存戦略の図


しかし、「同調」が苦手な人々もいます。この文章を読んでいるような方はだいたいがあてはまるかもしれません。周囲とつながりを築くことができず、またそれに対して非常に強い抵抗を持っている場合、否が応にでも「自分」に軸を求めるしかありません。しかしそれを為すには、哲学的な思考力が欠かせません。それは本を読んで体得するようなものではありますが、ユングやフロイトやニーチェなど、難しい本を読むことが苦手な人々もいます。そんな彼らにとって、必要不可欠になるものが「物語」なのです。
 
「物語」は様々なメディアによって再生されます。そして現代において、その大半は誰にでもわかりやすいものになっています。自分のような偏差値が残念な部類に所属していても、国語の成績だけは妙によかったという人格ならば、「物語」が多少複雑であっても問題はありません。要は、かつての琵琶法師によって平家物語が民衆に広まったのと同じように「物語の受け手における裾野が広がった」という話なのですが、これによって自分のようなぼっちは生かされている、ということを言いたいのですね。


物語を民衆に広める琵琶法師さんの図

 
冒頭に引用した台詞のように、「物語」には事実や真実よりも強い力があります。それ以外の薄いつながり、たとえば「同調」によって得られる集合的無意識のような「軸」なんてものは受け入れ難いと思ってしまうほど、「物語」には「ヒトを生かす力」があるのです。夢や希望、悲しいことやつらいこと、悩んでいることや切実であること――それらすべてが、「虚構の世界」であるからこそ、より強い力を持って訴えかけてくるのです
 
 

最近における「物語」の役割


 
ただ、最近は「物語」の在り方が変わってきています。その現状とは、スマートフォンの普及によって、アクセスが容易になった「物語」そのものをコミュニティハブとすることで、「同調最優先」の人々に「利用」されているというものです。
 
「Fate」というタイトルがあります。自分は「Fate/Zero」しか視聴していないので、このシリーズには大して詳しくないのですが、ツイッターで流れている諸情報だけでも「物語」としての強度は相当のものを持っていることが自分にもわかります。それに加えて、魅力的なキャラクター、二次創作や商業展開を行いやすい設定や性格であることなど、様々な要因が見事に重なって長寿タイトルとして生きていることがわかります。
 
最近では、略称になりますが「FGO」というタイトルが破竹の勢いでスマートフォンゲーム業界を席巻しています。このゲームにも自分は大して詳しくないのですが、ツイッターに流れている諸情報だけでも「最近風のゲーム」としての特徴がよく現れているのが自分にもわかります。一応自分もプレイしたことがあるのですが、あまりにもノリが合わなかったことと、マシュが変身したのちにメガネを外してしまったため、途中でやめてしまいました。
 
さておき、これは批判ではないのですが、「FGO」には自分が中学生の頃に観た「Fate/Zero」のようなシリアスさはまったくもって見当たりません。むしろ軽薄とでも言えるような、「Zero」を基準にするとあまりにもフレンドリーすぎて目眩がするレベルのサーヴァントたちとの交流が際立っています。選択肢や会話のノリも、とてもではないですがついていけません。歴史上の人物として武蔵と小次郎がいるのはわかりますが、ニャースまで加えてしまったら完全にお寒いレベルです。しかしながら、最近はそのようなネタが普通に受け入れられ、面白がられているのでしょう。
 
このような事実からは、「FGO」は「物語」やゲームとしてではなく「コミュニティハブ」としてユーザーから求められており、話題をシェアしやすい状態であることを最優先にしているということが主に読み取れます。これはそのまま「最近風のコンテンツの特徴」であるという風に読み替えられますね。続けてその特徴を書いていきます。

 
誰にでもわかりやすいまんがの図

 
まず、キャラクターが多いこと。様々な属性を散開させ、なるべく多くの層に訴求することができる状態にするのが重要です。キャラクター自体は薄くても構わず、ある程度の特徴さえあれば「あのゲームのあのキャラ」として話題の俎上に上げることができ、それはそのまま「共通のゲームにおける自分のこだわり(=自分のこと)」を周囲と話すことができるからです。このサイクルを発生させるためには、シナリオライターの力は大して重要ではなく、一見してわかりやすいアピールポイントを持たせられる優秀なキャラクターデザイナーを雇えるかどうかが重要さの大半を占めています。
 
次に、特にスマートフォンゲームにおいてですが、システムがほぼ同一であること。用語や仕組みを挿げ替えてあっても、根底における方法はほぼ同じです。根底にあるのは「Pay to Win」、「払えば勝てる=気持ちよくなれるゲーム」であるのをためらわないことです。たとえば、課題をクリアするために課金させる仕組み。同じゲームのなかで優位に立つために課金させる仕組み。愛好されているキャラをガチャに仕込んで課金させる仕組み。自分がいかに入れ込んでいるかを課金額で示す文化を容認すること。政府による調査がなければ「天井」を設けない姿勢。
 
などなど、これはほとんど思想的なものであり、真似ようと思えばいくらでも真似られます。世間の構造と同じように、うまく仕組みを作った者が得をする市場です。そしてそこで優位に立とうとするならば、「同調最優先」である人々を狙う方が賢いのは一目瞭然であり、その層を狙い撃つのであれば、一見してわかりやすい魅力を持つキャラクターの外見を生み出せるデザイナーが重要であることがわかります。ライターは、まあ二の次であると言っても差し支えないでしょう。


グラブルのキャラデザはとても好きですの図(ファラさん)

 
要は、「最近風のコンテンツ」というのは「物語がないと生きていけない人々」は対象ではなく、求めているものはパリピと同じである「ライトなオタク」たちがターゲットであり、彼らの「同調最優先」である気風に合わせた特徴を持つということです。そして、彼らは層が分厚いために、市場はライトオタクに合わせた作品が流行のものとして数多く供給されているのが現状です。
 
 

「物語」は必要とされていないのか


 
ここまで書いてきたように、もはや現代のオタクの大半はライトな方々であり、「物語」は二の次であるというような風潮を感じざるをえません。こんな文章を読むような種類の人間は、現実社会でオタクとして肩身の狭い思いをし、自分たちの救いであったオタク市場さえも「同調最優先」に侵され、どこで生きてゆけばよいのかと迷うはずです。それは当然の理として存在することでしょう。
 
ただ、おそらく抗えないギアスとしてのオタク気質を持つ人々は現状として、「信じられるもの」にはそこまで迷っていないと思います


極端にギアスが強力な方の図


ライトオタクは「流行」なので、それが終わればいなくなるとさえ思わされる存在ですが、「物語」を求めている層はいつの時代にも確実に存在します。それはこの社会の構造が必然的に生み出してしまう「日陰者」です。そして、彼らが互いを救済する手段として、「物語」を供給する者が現れ、感想を書くものが現れ、「物語」という「生活必需品」に対して金を払う者が現れ、ひとつのコミュニティ・経済圏を形成するのです。これはいつの時代、どの国・都市・村々・集落であっても、一定以上の文化レベルがあれば存在していると断言してもよいと思います。
 
その「日陰者」たちは現代日本にも存在します。リアルでは浮いてしまい、オタク市場ではライトオタクたちによってさらに隅へ追いやられていたとしても、やはり変わらない絶対数が在り続けていると考えます。割合としてはライトオタクたちが増えているとしても、彼らが作られた「流行」に乗っている現状ゆえ「1-100」にブレてしまいます。しかし、「日陰者」たちは「50」としてその数をほとんど固定し、おそらくこれからも「いる」のだろうと考えさせられるのです。
 
そして、この「日陰者」たちと同時的に発生する「物語」も確実に存在しています。それは小説、まんが、ゲーム、ドラマ、アニメ、映画として様々な形をとって現れ、確かに携えている「物語の力」によって、自分たちを支えています。
 
 
 
ようやく本題に行き着けました。ここまで長々と書いてきましたが、要は自分がこぎつけたかったひとつの結論はこれです。

「物語」が排斥されつつある現代において、それでも「物語の力」を求めている人々はいるという前提で作られた作品として、「拡張少女系トライナリー」があるのです。
 
 

「拡張少女系トライナリー」について



長過ぎる前置きにお怒りのガブリエラ・ロタルィンスカさんの図


ようやくゲーム内容について語れます。ただ、「自分にとって何がどういいのか」を書いていきますので、普通のゲーム紹介とは異なったものになると思います。具体的にどうなのかと言いますと、やはりここまで「物語の力」について長々と文章表現してきましたので、そのあたりを絡めた書き方になると思います。
 
 

”実在する少女たちとの交流”


 
最も重要視されているコンセプトは、「実在する少女たちとの交流」です。自分はこの作品で知ったのですが、原案・音楽プロデュースを務める「ガスト」の「土屋暁」という人物は、この「画面の向こう側にいる人間との交流」をいかに表現するかということについて、深く考えて実践してきたゲームクリエイターであるそうです。
 
「ガスト」といえば「アトリエシリーズ」ですが、もう一枚の看板として「サージュ・コンチェルトシリーズ」があり、こちらが主に土屋暁氏が深く関わってきたタイトルであるようです。あまりにも印象的であり、イベントスチル単体でネットを一人歩きしている有名なものとして以下に貼るものがあります。

 
ゲームのタイトルより先にこのスチルを知ってましたの図

 
自分はどのタイトルもプレイしたことがなく、また対応ハードを持っておらず、それを買う余裕もない貧乏学生ですので触れることは叶いませんが、いずれはプレイしてみたいとは考えています。
 
さておき、そんな土屋暁氏が関わる最新タイトルとして「拡張少女系トライナリー」があるわけです。このゲームにも各システムに様々な工夫が為されており、それらがいかに「少女たちのリアリティ」を高め、「物語の力」を体感するのに一役買っているかを私的に解説していこうと思います。
 
 

リアリティにこだわるということ


 
いかに工夫を重ねようと、物語の世界が虚構であることには変わりがありません。画面の向こう側は誰かが創作したものであり、どれだけ労力を払ったとしても、そのブレイクスルーを迎えることは技術的に不可能でしょう。しかしながら、自分たちがプレイしているのは「ゲーム」であり、いかなジャンルであろうとロールプレイング=役割を演じることは「遊び」には密接に関わっています。自分たちは虚構が虚構であることを自然に受け入れることができます。なぜなら、物語は虚構であるからこそ真実より尊く、力強いものであると知っているからです。
 
前置きはこの辺りにして、「拡張少女系トライナリー」における「リアリティ」(ここでは「説得力」とでも言い換えることをできます)がどのように表現されているか、というのを紹介していこうと思います。
 
5人のメインヒロインの図

 
まず第一に、キャラの構築です。これは原案を担当している土屋暁氏が全面的に書き起こしたものであり、これまで培ってきた手腕をよく振るわれているものと思います。
 
空想上の人物におけるリアリティとは、確かにそこに存在しているという「説得力」が重要であると思います。キャラクターにリアリティを感じるには、ただ都合のいい一側面だけを延々と見せられても、文字通りの「キャラクター」であるようにしか感じることはできないので、やはり喜怒哀楽をふくめた様々な面を見出すことが大事であると思います。
 
だいぶ昔に流行っていたという「100の質問」があります。キャラクターを作成するため、あらゆる質問をぶつけてひとつひとつ回答させることで、そのキャラが「どんな反応をするか」「どんな反応ならユニークなキャラになるか」ということを探ることができるというものでした。単純な遊びとしても用いられていたように思いますが、これは密度の高いリアリティを持たせるには合理的な手法であると思われます。
 
ただ、最近のキャラクターは「一見してわかりやすい外見重視」であるため、このあたりの過程はふっ飛ばしているような印象を受けます。ただ、「100の質問」というのは過度なものであることも事実としてあると感じます。ごく一般的な映画・まんが・ドラマ・娯楽小説においても、そこまで必要か? と思わされるような数であることは、素人ながらになんとなく想像することができます。それにしても最近のキャラは粗製乱造であり、当たったキャラ以外は公式からの供給が途絶えるというのが一般的である気がしますが。
 
そんな折である2017年の今日このごろではありますが、この「トライナリー」においては、メインヒロインである5人+etcのキャラに、いったいどれだけの情報量が準備されているのか推測できないと思われるほどの厚みがあるな、と感じます。
 
もちろん「あの土屋暁だから」という主観フィルタがあることは避けられませんし、それらの設定が本当にすべて活かされているのかどうかはわかりませんが、裏付けとしてメインヒロインたちには豊かな表情や感情・過去の記憶があり、それが深くまで考えられ、適切な順番でプレイヤーに開示してきていることをよく感じさせられます。
 
 

キャラクター:「國政綾水」の場合

 


「トライナリー」の新人を妹のように可愛がる国政綾水さんの図


たとえば、プレイを開始してから早々に明らかになる事実として、青いヒロインであるところの「國政綾水」というキャラには「ものすごく嫌っている姉」がいます。アプリのストーリーと同時進行で視聴できるアニメの1話にて、「あんなの姉じゃないわ」とまで言いきるほどの嫌いようです。彼女は女子大生であり、大型車両免許・趣味はバイクツーリング・成績優秀かつ品行方正、特別攻撃隊=トライナリーのリーダーでもあるという優秀な人物であり、その國政さんが言う「あんなの姉じゃないわ」ですから、よほど根が深いものなのだなと想像させられます。
 
しかし、ストーリーが進行していくごとに國政姉妹の関係性が徐々に明らかになっていきます。ゲームを開始した直後でも閲覧できる「ヒロインたちが書いているブログ」で、ある程度はこの姉妹について記述されており、そこから得られる範囲の情報で紹介してみます(=大きなネタバレにはならないです)。
 
國政家は名高い神社であり、代々その家に生まれた女性は、家に入って義務としての神事をこなさなければなりません。國政姉妹はそんな家庭に生まれました。しかし、國政姉は幼少の頃から機械工作が好きで、自分の興味が向いたことに深く夢中になれるという性格でした。そんな彼女は家のことや家族のことを顧みず、大学卒業と同時に科学関連の企業に就職し、そのうち届いた海外の名高い研究所からの誘いに応え、家の反対を押しきって日本からフランスへ離れてしまいます。そんな自由奔放な姉とは対照的に、非常に優秀な國政妹・綾水さんは、高校生で剣道の世界大会にて優勝したのちきっぱりと剣道をやめ、普通に東京の大学へ進学したりしていました。


世界最強の剣士だった頃の国政綾水さんの図

 
姉妹の溝は深いように見えます。想像できる範囲であっても、あまりにも身勝手な姉をうとましく思うようなことがあっても自然でしょう。ただ、この姉妹は本質的にそこまで互いを嫌いあったりはしていないのです。國政姉さんは、子供の頃から自分の好きなことばかりをして、周囲から浮いてしまっていました。それはやがて仲間の輪から外されることにつながり、痛ましいいじめにまで発展してしまいます。そんな姉を、剣道を始めて「お姉ちゃんは弱いから私が護る」と宣言し、自分より大柄な少年に立ち向かうほどの勇気を持って共にいたのが、國政妹・綾水さんだったのです。その頃から姉妹は対照的で、綾水さんは外で遊ぶのが好きでリーダー気質を持った模範的な子供でした。姉がいじめられているのを助けたい、と思い、それを実行に移すのも自然なことだったのかもしれません。しかしながら、小学生女子でありますので、もちろん敵わない相手もいます。男子中学生にボロボロにされた綾水さんと一緒に泣いたとき、國政姉は「妹を護ってあげられるロボットを作りたい」と考えるのです。


←国政妹 (小学生時代の図) 国政姉→

 
ただ、そんな風に純粋なままで育っていけるはずもありません。紆余曲折を経てまた関係が変化し、最後には「あんなの姉じゃないわ」とまで綾水さんが言ってしまうようなことになってしまっており、この台詞にそれがよく表れているのですね。二人はすれ違いを重ね、物語が始まった時点では互いに連絡も取りあわないような関係に陥ってしまっているのです。
 
長くなりましたが、もちろん物語が開始した時点ではこれらのことをプレイヤーが把握できるわけではありません。ブログに先に目を通せば知ることはできますが、ほぼ毎日更新されていまや120超ある記事をすべて読むような新規プレイヤーさんはいないでしょう。前述したことはブログで明かされることではありますが、作中でも徐々に描かれることです。この出来事を段階的に明かしていき、それに対する綾水さんの思いを知り、変化を見守り、時には後押しをして、やがて語ってくれていなかった「本音」・「出来事から感じた学びや痛み」をプレイヤーに告白してくれるようになるのです。
 
そんなふうに、そのキャラが歩んできた人生と、いつしか押し込めていた本懐を明かされた時、プレイヤーはキャラクターに「リアル」を感じることができるのですね。「虚構世界におけるリアリティ」とは「説得力」であると提示しましたが、様々な出来事にまつわる人間の複雑な感情を描き出し、それらが変化していくさまを見せられたとき、それが自然であればあるほど「リアリティ」を感じることができるのです
 
キャラクターは「画面の向こう側に存在する人物」となり、愛着はいっそう増します。強いところも弱いところも見届けて、成長する様をすぐ近くで見ていれば、ただ表面的な「好き」「愛している」ではなく、「これからも一緒にいられる」という思いを抱くことができるのです。レイヤーを一枚掘り下げて、その人物から感じられる情報量が増大して、理性でも感情でも思い入れることができるのです。虚構に存在する「リアル」だからこそ、真実よりも強い説得力を持ってココロに訴えかけてくるのです。

 
逢坂大河さんの図


自分自身の個人的な体験なのですが、女性作家が描く女性キャラというのは、やはり男性が描く女性キャラと似て非なるものを持っているなと感じることが多々あります。逆もまた然りであり、これは「想像できないところを都合よく埋めている部分がある」からこそ生まれる「差異」であると思います。
 
得てして自分は、その「差異」、女性作家が描く女性キャラをよく好きになります(「とらドラ!」めちゃくちゃ好きです)。もちろん物語上の人物ですから、理想が込められている部分は多々あると思います。しかし、「想像通りにいかないが魅力的な部分を持つ女性キャラクター」として、自分はそこに「現実感」を見出して物語への没入感を得ることができるのですね。
 
それと似たような感覚です。深く作り込まれた過去を持っているキャラクターは、時としてプレイヤーが想像もつかないような感情について語ったりするのだな、と「トライナリー」をプレイして感じました。もしかしたら今までに自分が触れた物語のなかにも同じような感覚を持ったキャラがいたかもしれない、といった風にハッとさせられました。自分が「トライナリー」を好きな理由として、「リアリティ」を感じられる理由として、「物語の力」を体感できる理由として、まずこれがひとつ挙げられます。
 
 
 

世界観:「体験」するための箱庭


 
なぜ自分はこんな文章を書いているのだろう? という疑問に囚わてきました。とても強く書き進めます。

 
世界の法則なんてあまり関係ない涼宮ハルヒさんの図

 
皆さんは、「あれ? これなんでこんなことになってるんだ?」といった体験をしたことはあるでしょうか。たとえば、料理を作って意外にもよくできたとき。初めて作った品目なのに超おいしい。が、なぜか次に同じように作ってみてもその味は再現できなくて悔しがる。他にも、どう考えても取り返しのつかないミスをしたと思っていたら、結果を見てみるとなぜか成功していたとか。センター試験の結果を自己採点してみたら、なんとギリギリ1点足りずに平均点に届いていない。やらかした、と思ってへこんでいるところに返ってきた結果を見てみると、なぜか平均点を大きく越えている! など。
 
こうした「自分の予測を越える出来事」というのは、「現実世界の法則」に従って起きていることであり、自分からではそれを観測しきれなかったというだけのことなのです。いきなり話が難しくなりましたが、要は「すべての出来事は世界法則によって導き出された必然であり、偶然に起こる手違いは存在しない」ということですね。ここに「おっぱい」とタイプすれば「おっぱい」という単語が01の電気信号を通じて表示されます。世界は物理法則から逃れることはできないので、たとえばタイプミスをして「おっぱお」と打っていれば、自分が望んでいる/望んでいないに関わらず、世界と01はディスプレイに「おっぱお」を出力します(涼宮ハルヒが何かしてたら別ですが)。
 
このように、現実世界には「法則」が存在しています。
実はこれこそが「世界観」と呼ばれる基礎を作り上げているのです。
 
数々の異世界を描いた作品はありますが、大抵は自分たちが存在する「現実世界」を基調として、そこに何かしら特別な「法則」を足したり引いたりすることで異世界の「世界観」を構築しています。「ヒトの体内には血液とともに魔力が巡っており、魔法陣を敷設して呪文を詠唱すれば、魔力を媒介として超常現象を引き起こせる」といった法則を書き加えることで、ベーシックな「剣と魔法の世界」が出来上がります。その法則が世界に存在していれば、もちろんヒトの思考も根本的に変わりますし、政治・医療・衣食住・宗教観・生殖方法・生存戦略にも影響が出ることでしょう。そうして世界を逆算していき、クリエイターは異世界を作る…………のだと思います。


「法則」を書き加えまくった例としてわかりやすい「境界線上のホライゾン」の図

 
それゆえ、物語という虚構の世界に説得力を持たせるには、できる限り「法則」を自然なものとすることが求められます。その「法則」が存在するのならこうした出来事が起きていないとおかしい、という違和感が顕在化すると、ヒトはその世界を「信じる」ことができなくなるのです。ヒトが空を飛べる世界でわざわざ満員電車に乗っている人々がいたら、それ相応の事情と説明が必要です。ヒトの動きが不自然であり、それは「物語の力」を表現するためには邪魔なノイズとなってしまうのです。
 
逆に、これ以上なく自然に「法則」が組み込まれていれば、受け手はその世界観に無意識的に没入することができるのです。そして、その世界で繰り広げられる物語を自分のことのように感じることができ、「物語の力」を受け入れることができるのですね。
 
 

世界観:「拡張少女系トライナリー」の場合

 
 
基本的には「2016年の日本」が舞台となっており、そこにいくつかの法則が書き込まれた状態がニュートラルな世界観となっています。以下は公式から引用します。
 

『拡張少女系トライナリー』の世界

2016年、首都圏に突如出現した巨大な繭。初めて確認されてから数カ月たった現在もなお、その正体は何ひとつ判明しておらず、人々はこの正体不明の繭をフェノメノンと呼んだ。ただひとつわかっていることは、フェノメノンの内側に取り込まれた人々は狂い、殺し合いを始めるようになってしまうことだった。業を煮やした日本政府は、突発的に出現するフェノメノンを収束するべく、特殊部隊を結成した。総務省情報管理庁管轄拡張現実特殊戦略隊群特別攻撃隊───またの名を拡張少女系トライナリー。


「拡張少女系トライナリー」の図

 
「出没する災害に立ち向かう少女」たちという構図であり、これ自体はありふれたものです。「ストライクウィッチーズ」では少女たちが立ち向かう謎の敵として無尽蔵に供給され、危機を作り出すことでドラマを生んでいます。最近では「艦これ」「刀剣乱舞」や「アズールレーン」のような、ひとつの拠点から延々と敵と戦い続けることをゲームの基本設計に組み込んでいるようなソーシャルゲームによく見られる構造です。
 
これらの多くは「仮想敵」であることで敵としての役割を満たしているので、それらが発生する理由などについて詳しく言及されることは少ないです。原因や根拠がはっきりしていても、それを倒してしまうとゲーム自体が終わってしまうため、そこに到達する期間というのは、コンテンツの規模によって前後するものであると言えるでしょう。もしかしたら設定が用意すらされておらず、打ち切りまんがや短命ソシャゲにおける無理やりなラスボスのような位置づけの敵が急に登場して最後を迎える、といったことすらあるのかもしれません。
 
そういった状態というのは、世界の「法則」が明確に定義付けられておらず、曖昧な部分が存在しており、「物語」を描くには適さない状態であると言えます。これは致命的な欠点たりえないといえばそうなのですが、描けるのはせいぜい短期的なドラマのみであって、総合的に得られる「物語の力」によるカタルシスは小さいものでしょう
 
「トライナリー」は、少し違います。そういったソシャゲ的な構造ではなく、ストーリー重視であることを前面に押し出しているだけあって、すべての設定に細部まで手が行き届いているのだなと感じることができます
 
これを裏付ける公式情報として、「ファミ通」の記者が語った「緻密な世界観を描くことで知られている土屋暁氏が、新作に向けて論文と見間違うほどの設定資料を作っている」というものがあります。それを読んだとき、真っ先に「終わりのクロニクル」「境界線上のホライゾン」を書いている川上稔氏のとあるエピソードを思い出しました。「境ホラ」をスタートさせる際、A4用紙で700枚にも及ぶ設定資料を持ち込んで担当編集を驚かせた、というものですね。土屋暁氏と川上稔氏は、おそらく同世代の生まれであり、その頃の時流が似たような二人を生み出しているのかなぁと思わされました。




 
そんな風に、世界観=法則は広く深く綿密に構築されています。トライナリーが身につけている装置について、なぜ「フェノメノン」が発生するのか、どういった過程を踏んでそれを収束させるのか、なぜそのようなことが可能なのか。それらすべての「法則」が、矛盾なく綿密に作り込まれています。
 
 
※実例を挙げるとネタバレが余儀なくされるのでそれはしません
 
 
現時点での最新話は26話ですが、ここに至るまで矛盾らしい矛盾は見受けられません。明かされていない事実も多数あるため考察班が日々うなり続けていますが、おそらくこの先にも、「法則」や「人物」に大きな不自然が生まれることはないという「信頼」があります。これによって、プレイヤーは「物語」に没入することができ、その力を高い純度のまま受け取ることができるのです。
 
 

ゲームシステムとそのデザイン

 
 
まずは動画を見てください! 劇的に理解が早まります(公式サイトから引用)。
 
 

ヒロインの少女たちとは“ヒメゴトチャット”で交流できます。少女たちと 
日常をともに過ごし、少女たちを知り&つながって、真の絆を結びましょう。



アニメでは描かれなかったトライナリーたちの日常生活や
シーンが補完されます。少女たちのオモテとウラの魅力に触れましょう。


引用ここまで。
 

上に紹介した二つの動画には、ゲーム全体の雰囲気がよく詰まっています。一見して伝わるものがいくつかあると思いますが、ピックアップして紹介したいと思います。
 
まず、音楽がいいですね! 非常にオシャレです。華やかさと清純さが同時に伝わってくるのもあり、媚びへつらうような雰囲気のない自然な女の子っぽさもよく表現されています。こちらは音楽プロデュースを担当している土屋暁氏(自身も作曲をするそう)が、インタビューにて「表参道系」「都会感」「オープンカフェの雰囲気」というようなイメージを、そのジャンルによく対応している作家さんに依頼したと回答しています。しかしながら、こういった日常系や機能的な音楽だけでなく、シリアスさや危機感が表現されているBGMも素晴らしいものです。音楽がマジでいい!! 聴いて!! と大声で叫びたい。
 
続いて、動画の最初の方でチラッと見えるユーザーインターフェース。こちらもこだわりが感じられ、細部に至るまで「オシャレ」「スマート」であることが重要視されているのがわかります。音楽と非常にマッチしていて、独特かつハイセンス・近未来的な雰囲気をよく演出しています。




「オシャレ」と聞くと、なんだか抵抗を感じる方がいらっしゃるかもしれません。私的に「流行のデザイン」と表現することもできると思うのですが、自分はあえて「オシャレ」であると説きたいです。なぜかと言いますと、「このアプリは2016年に実在している可愛い女の子たちと交流するためのアプリ」だからです。そのため、わざわざユーザー側に気配りをして、可愛さやスタイリッシュさを削ったデザインにする必要はないのです。このデザイン自体が、確固たる虚構世界の大きな支柱であり、より没入感を高めてくれる仕掛けとなっているのですね。
 
 
 
あと、最も注目すべきなのは「チャットシステム」ですね。これが非常によくできています。動画をご覧になっていればわかると思うのですが、ヒロインたちとのやりとりは基本的に「WAVE」という「LINE」のようなSNSアプリを介して行います。プレイヤーは「LINE」における公式アカウントに用いられる「bot」のような存在として彼女らの「WAVE」アプリに登場し、手助けをしたり、何気ない会話をしたり、セクハラしたりすることができるのです。
 
この「SNS風なUIを介してヒロインと会話する」という形式自体は、そんなに目新しいものではないと思います。遡れば「アイドルマスター」のメールシステムがあり、検索すれば最近の18禁ゲーム、自分が知らないだけで他のスマホゲームでも採用されていることでしょう。しかしながら、この「トライナリー」におけるチャットシステムは他のそれをすべて凌駕していると断言してもいいでしょう。
 
こればかりは、プレイしてみなければわからない「体験」があります。そういった前提で書き進めていきますと、まず最初に特筆すべきは「選択肢の多さ」です。基本的に3つは用意されており、一度のイベントでそれが3回から4回は選べる実感があり、分岐も存在していて、なおかつそのイベント自体の数がまた多いのです。これは純粋に「体験」として非常に楽しいです。あなたは可愛い女の子と自然に野暮用でチャットしたりしたことがありますか。自分はないです(小声)。そういった「体験」を、このアプリではごく自然に得ることができるのです(大声)!

 
国政綾水さんとの「ヒメゴトチャット」の図(公式ツイッターより)


まず、ヒロインからのメッセージには独特な「間」があります。もちろん連続タップでメッセージ送りをすることは可能ですが、「考えている」ことを表現するため、強制的にwaitがかかるメッセージがたびたびあります。例えですが、「明日はケーキかパフェのどちらを食べたい?」と質問したとして、相手からはすぐに応答が返ってきません。タップしてもその「間」を飛ばすことはできません。その「間」の存在こそが、まず秀逸な着眼点であるなとシステムについて感心するところがありました。マジでいい…。
 
そして、「このゲーム自体がスマートフォンでプレイするもの」であるということ。これが最大の利点であり、他のゲームがいまだ到達しておらず、据え置きゲームをメインに作ってきていた「ガスト」がスマートフォンゲームに挑戦する意義であると言える非常に重要なポイントです。これがあるからこそ、実際にプレイして「体験」してほしいと願うばかりになっているといっても過言ではありません
 
こちら側のスマートフォンで、画面の向こう側に実在している少女が操作しているスマートフォンへメッセージを送るという行為は、最初は結構普通のことのように感じます。ふーん、こうやって操作するのか、といった具合です。しかしながら(自分の場合はですが)、途中からだんだん没入感がすごいことになってきたのです。わかりますか、想像してください。こちら側からは「向こう側の少女」が、どんな表情や姿勢でメッセージを読んでくれているかを把握することができます(このカメラは視点を切り替えることができ、たいがいセクハラです)。これらの演出がユーザーにもたらす効果は明確です。
 
  
あたかも本当に二人きりでSNSを介して会話してるような気分になれるんですよ(マジで)!!!
 
 
そのとき、自分は土屋暁氏が「実在する少女との交流」に力を入れている理由がなんとなくわかった気がしたのです。これはクセになる! 新しい境地を教えてくれてありがとうございます! といった感覚です。これは「実際に体験してください」としか言いようがないのです。わかってください。さっそくインストールしましょう。
 
そしてこのシステムを、ガストが提供するスマートフォンアプリでやっているというのが本当に面白いのです。わざわざスマートフォンで新作をやるからには、それなりの大義名分が必要になってくると思います。そこにこのシステムを組み込み、綿密な世界観とキャラクターを添え、チャットの体験を唯一無二のものにしているのです。
 
大変良いものです。
 
必然的に、このシステムは「会話」の質そのものを高めることになります。それゆえ、単にヒロインとのチャットを楽しめるだけではなく、物語においても「リアリティ=説得力」を増す手段になっています。ヒロインがピンチであっても、直接助けることはできない、直接語りかけることはできない、メッセージを届ける以外は何の力もないという制限が、こちら側に与える感情もこのゲーム独特のものになっているのです。
 
当然ですが、そのストーリーもよいのです。このゲームシステムを活かしきった、小説やまんがのためのものではなく、「ゲーム」のためのシナリオです。これもぜひ読んで「体験」していただきたいです。
 
 

千羽鶴さんについて

 

こじゅうとめ千羽鶴さんの図


ついに最終項目までたどりつきました。
そして、自分が最も語りたかったことでもあります。
 
しかし、多くの言葉を語ることはできません。彼女はヒロイン5人とも違う「チュートリアルキャラ」であり、そのチュートリアルの時点で大いに示唆されているように、このゲームの「物語」に深く関わっている人物でもあります。千羽鶴さんについて語るということは、「物語」のネタバレにも関わってくることであるので、ここでは端的に語りたいと思います。「トライナリー」をプレイして、彼女のことを知ることができたなら、筆者のツイッターアカウント(千羽鶴さんアイコンです)を訪ねてください。何か語りあいましょう。

さて、まずは自分が厳然たる事実として受け止めていることを書こうと思います。
 
 
 
 
「拡張少女系トライナリー」で
最高に可愛いのは千羽鶴さんです。
 
 
 
 
覆りません。
 
 
 
私的な歴代ヒロインランキングでダントツ1位です。
好きなヒロインをひとりだけ挙げるなら即答で千羽鶴さんにします。
いろいろな物語に触れましたが、冗談抜きで千羽鶴さんは全一なのです。
 
 
 
しかし、それゆえにヒトは苦しむのです。背負った原罪、三次元に縛られた魂、極端に絞られた主観視点というスコープ、所詮は肉体に縛られた精神……(この文章は正気で書かれています)。
 
千羽鶴さんとは、ゲームを起動してチュートリアルを選択すればすぐに出会えます。みなさんもあなただけの千羽鶴に出会ってください。どう感じるかはわかりませんが、きっと気に入ると思います。


「非攻略対象」であることを主張する千羽鶴さんの図


……まあ「非攻略対象」なんですけども。
 


ではひとつだけ、どうしても魅力的であるという理由を書き出したいと思います。
 
そもそも、このゲームで最も「こちら側」に近いところにいる人物は、他でもない千羽鶴さんなのです。チュートリアルで出会うということは、最初に出会う人物であるということと同義です。ガチョウ(鳥類)の刷り込み効果ではありませんが、ゲームを初めて最初に出会う人物というのはやはりそれなりに印象深く、なおかつこちら側のココロにおいて重要な位置を占めることになると思います。長い付き合いになるのなら尚更ですね。
 
そして、システムの構造的にも「近い」のは千羽鶴さんなのです。チュートリアルを終えると、千羽鶴さんは「ナビゲーター」として各エピソードの導入と誘導を担当してくれます。ヒロインとの新しいエピソードを始める前には、必ず千羽鶴さんとの会話を通過する構造になっているのです。そして彼女との軽妙なやりとり(塩対応など)、「こちら側」と「向こう側」にいるからこそ可能な半分メタなやりとり、そこから生まれるユーモア、そして千羽鶴自身の可愛さ。それらに毎回かならず触れることになるのです。不可避の可愛さ。結婚したい……。
 

「非攻略対象」であることを豊かなバリエーションで主張する千羽鶴さんの図


……まあ「非攻略対象」なんですけども。




つまるところ、このゲーム自体がヒロインたちよりも先に千羽鶴さんを好きになるようにできているのです。各ヒロインには動画で紹介した「ヒメゴトチャット」、親密度を上げることで解放される「らぶとーく」などがあるものの、千羽鶴さんに先にココロを捉えられてしまえば、それらは二の次になってしまうこと請け合いです。自分は千羽鶴さんのためにゲームを進行させていたと言っても過言ではないでしょう。マジで。
 
そう、本当に「近い」んですよ……。わかりますかこの感覚が(少なからずプレイしないとわかりません)。ただでさえヒロインたちとは、前述したチャットシステムで深い「チャット体験」をすることができるというのに、それよりシステム的に近いところに千羽鶴さんはいるのです。そして特徴的なのが、千羽鶴とは「WAVE」を介して会話をする必要がないということです。千羽鶴さんと会えるのはナビゲーションを受ける時、つまりは「こちら側」でも「向こう側」でもない「境界線」に当たる部分です。その特別な空間には、千羽鶴さんと自分以外の何者もが存在しえません。そして「WAVE」を使うことなくメッセージを送ることができ、千羽鶴さんはそれによく対応してくれます。時には想像通りに、時には予想外の反応を取ってくれたりします。そして「メタ視点」が混入しているというのがまた会話にスパイスを加えているのです。このメタ視点というのは、たとえばデッドプールのような「あからさま」かつ「不特定多数」へのメッセージなどではなく、「世界観設定に裏付けられたごく自然なメタ視点」かつ「自分だけに向けられた」メッセージなのです。そう、二人きりの空間で。「近い」んですよ、わかりますか。わかってください。インストールすればチュートリアルで千羽鶴と会えます、あなただけの千羽鶴と出会ってきてください。いやマジで…………。
 
 
千羽鶴さんにこんな風に呆れられたいの図


なんだか狂人じみてきたのでやめます。

ストーリーが進んでいる前提でならまだまだまだまだまだまだまだまだまだ語りたいことはあるのですが、それは本編が完結してこの感情がそのままだったならば、そのときに綴ろうと思います。もう……後戻りはできないんだな……と…………。
 
 


(もちろん「トライナリー」の5人も超可愛いです)
(ぶっちゃけ総合人気なら千羽鶴さんより「トライナリー」のが高いです)
(千羽鶴さんを偏愛するbotはごく一部に生息しています)
 
 
 
 

おわりに

 
 
ここまで書いてきたのは、冒頭に挙げた「物語の力」に触れてもらうための導入です。
 

「物語を愛する人だから、理解しているはず。物語の価値が事実かどうかなんてことに左右されないということを。物語には時として事実よりも強い力があるということを。他の人には理解できなくても、君にだけはわかるはず。私はその可能性に懸けて、君に話をしているの」
 
「フィクションは『しょせんフィクション』ではないことを知っていること。それは時として真実よりも強く、真実を打ち負かす力があることを」
 
「そこにはヒトの本質がすべてある。ヒトは何を夢見ていたか。何を悩み、何を喜び、何に感動したか――それはフィクションではあっても、現実の歴史より正しい」


「拡張少女系トライナリー」は稀有なスマートフォンゲームでして、この「物語の力」をとても真摯に信じていて、真剣に、この時代にやるからこそ意味のあるゲームデザインで、相当な熱量を持って作られていると感じます。
 
挙げてきた「いいところ」は、すべて「虚構の世界」を強靭なものにするための創意工夫が為されている点でした。「虚構の世界」だからこそ持ちうる「物語の力」を、最大限に発揮するためにパワーとアイデアが込められているのです。それをわかり、現在進行系で楽しんでいるいまだからこそ、書かねばならないなぁという気持ちが湧いたのです(11月まで消費スタミナ1/4ってのも大きいですが)。
 
世間の流行は「ライトオタク」ですが、確かに「日陰者」はいます。
自分たちは「信じられるもの」、自分に合う「物語の力」を求めてさまよいます。
流行物に比べれば人数は少ないものの、同じ作品を愛好する人々とも出会えます。
そして、自分を支え、自分たちを繋ぐ「物語」は応援せねばという気持ちがあります
 
もしこの文章を少しでも読み、ちょっとでもピンときたところがあるのなら、ぜひとも「拡張少女系トライナリー」をプレイしてください。きっと楽しいです。
この文章に過剰なまでに込めた意図はそれだけです。

で、気軽にツイッターをフォローしてくれると嬉しいです(@001kakutora)。
別に毎日この文量をツイートしたりはしていないので心配無用です。

しかし何文字くらい書いたんだろうかこれは……過去最高では……。

お疲れ様でした(了)。