2017年10月20日

「拡張少女系トライナリー」をプレイしてください

 

 

はじめに


 
以下の3つの台詞は、「アイの物語(山本弘)」からの引用です。

「物語を愛する人だから、理解しているはず。物語の価値が事実かどうかなんてことに左右されないということを。物語には時として事実よりも強い力があるということを。他の人には理解できなくても、君にだけはわかるはず。私はその可能性に懸けて、君に話をしているの」
 
「フィクションは『しょせんフィクション』ではないことを知っていること。それは時として真実よりも強く、真実を打ち負かす力があることを」
 
「そこにはヒトの本質がすべてある。ヒトは何を夢見ていたか。何を悩み、何を喜び、何に感動したか――それはフィクションではあっても、現実の歴史より正しい」

「アイの物語」は、自分が一度開いてそのまま読破した唯一のハードカバー作品です。 高校生の頃に図書館で偶然手に取っていたことを、いやあとても幸運だったなぁといまでも思っています。
 
その「アイの物語」がどういった作品なのかは置いておき、上の台詞を引用したのは、自分がこれから書いていこうと思う「拡張少女系トライナリー」についての内容の根本にある思想であるからに他なりません。
 
ゲームについて語る前に、「物語」というものについての私観を述べたいと思います。それなりに長くなりますが、自分なりに「トライナリー」推薦文を書こうとすると、これに興味を持って読んでくれる方に対してしか書けないし、そして共感してくださった方には確実に「刺さる」ものと思います。

(この文章を書いている現在、スタミナ消費が1/4になるなど破格の新規さん向けキャンペーンが行われています。始めるならいまが絶好のタイミングなのです。それゆえこの文章を書いている向きも確かにあります。)
 














物語再考


 
直近では、あまりにも低レベルな政治の話題、連なり続ける世界的大企業のデータ改ざんなど、現実ではもはや自分たちは何を信じたらよいのかと思わされる出来事が続いています。終身雇用神話や、その頃を生きた大人に教えられてきた常識なんてものは、自分(21歳)のような若い世代には単なる幻想でしかありません。いまは景気が上向いているとされていたり、政治も比較的ながら局面が決定的である傾向は感じますが、これも10年・20年という長いサイクルで観れば、過去に学ばない人々が作る上下動ループの一部分でしかないと感じます。
 
リアルな実感はさておき、いまの20代~30代の若い世代というのは、他の世代よりも強く「物語」を求める傾向にあると思います。現実において信じていた「正解」や「常識」は何も信じることができず、しかし学力至上主義のなかを生きたことで「正解」がどこかにあると思い込み、それを探し求めてしまう。「信じられるもの」を、自分の人格以外のどこかに存在すると定義付けてしまうのですね。それを実現しようとすると「洗脳」しか手段がないことはかなり明らかなのですが、どうしても自分という現実における唯一の軸を信じることができない。これはとても深刻で、哀れまれる現象です。
 
それゆえ、他者とのつながりをよく好みます。パリピと言われる人々は、ひとりになると途端に自我が薄くなります。実例として見たことがあるものは、運動部第一線で活躍してオタクを見下すカーストにいたというのに、その部活の流行が「エヴァ」になったとほぼ同時、すぐにそちらへ同調して「エヴァ」を視聴して賞賛していたという事例です。彼はその後、流行がなくなった直後には普通のパリピとして過ごしていました。このような「同調最優先」な行動というのは、支配する側が明確にされている家父長制度があったような日本だからこそ、ある種の本能的な生存戦略なのかもしれません。
 
 
生存戦略の図


しかし、「同調」が苦手な人々もいます。この文章を読んでいるような方はだいたいがあてはまるかもしれません。周囲とつながりを築くことができず、またそれに対して非常に強い抵抗を持っている場合、否が応にでも「自分」に軸を求めるしかありません。しかしそれを為すには、哲学的な思考力が欠かせません。それは本を読んで体得するようなものではありますが、ユングやフロイトやニーチェなど、難しい本を読むことが苦手な人々もいます。そんな彼らにとって、必要不可欠になるものが「物語」なのです。
 
「物語」は様々なメディアによって再生されます。そして現代において、その大半は誰にでもわかりやすいものになっています。自分のような偏差値が残念な部類に所属していても、国語の成績だけは妙によかったという人格ならば、「物語」が多少複雑であっても問題はありません。要は、かつての琵琶法師によって平家物語が民衆に広まったのと同じように「物語の受け手における裾野が広がった」という話なのですが、これによって自分のようなぼっちは生かされている、ということを言いたいのですね。


物語を民衆に広める琵琶法師さんの図

 
冒頭に引用した台詞のように、「物語」には事実や真実よりも強い力があります。それ以外の薄いつながり、たとえば「同調」によって得られる集合的無意識のような「軸」なんてものは受け入れ難いと思ってしまうほど、「物語」には「ヒトを生かす力」があるのです。夢や希望、悲しいことやつらいこと、悩んでいることや切実であること――それらすべてが、「虚構の世界」であるからこそ、より強い力を持って訴えかけてくるのです
 
 

最近における「物語」の役割


 
ただ、最近は「物語」の在り方が変わってきています。その現状とは、スマートフォンの普及によって、アクセスが容易になった「物語」そのものをコミュニティハブとすることで、「同調最優先」の人々に「利用」されているというものです。
 
「Fate」というタイトルがあります。自分は「Fate/Zero」しか視聴していないので、このシリーズには大して詳しくないのですが、ツイッターで流れている諸情報だけでも「物語」としての強度は相当のものを持っていることが自分にもわかります。それに加えて、魅力的なキャラクター、二次創作や商業展開を行いやすい設定や性格であることなど、様々な要因が見事に重なって長寿タイトルとして生きていることがわかります。
 
最近では、略称になりますが「FGO」というタイトルが破竹の勢いでスマートフォンゲーム業界を席巻しています。このゲームにも自分は大して詳しくないのですが、ツイッターに流れている諸情報だけでも「最近風のゲーム」としての特徴がよく現れているのが自分にもわかります。一応自分もプレイしたことがあるのですが、あまりにもノリが合わなかったことと、マシュが変身したのちにメガネを外してしまったため、途中でやめてしまいました。
 
さておき、これは批判ではないのですが、「FGO」には自分が中学生の頃に観た「Fate/Zero」のようなシリアスさはまったくもって見当たりません。むしろ軽薄とでも言えるような、「Zero」を基準にするとあまりにもフレンドリーすぎて目眩がするレベルのサーヴァントたちとの交流が際立っています。選択肢や会話のノリも、とてもではないですがついていけません。歴史上の人物として武蔵と小次郎がいるのはわかりますが、ニャースまで加えてしまったら完全にお寒いレベルです。しかしながら、最近はそのようなネタが普通に受け入れられ、面白がられているのでしょう。
 
このような事実からは、「FGO」は「物語」やゲームとしてではなく「コミュニティハブ」としてユーザーから求められており、話題をシェアしやすい状態であることを最優先にしているということが主に読み取れます。これはそのまま「最近風のコンテンツの特徴」であるという風に読み替えられますね。続けてその特徴を書いていきます。

 
誰にでもわかりやすいまんがの図

 
まず、キャラクターが多いこと。様々な属性を散開させ、なるべく多くの層に訴求することができる状態にするのが重要です。キャラクター自体は薄くても構わず、ある程度の特徴さえあれば「あのゲームのあのキャラ」として話題の俎上に上げることができ、それはそのまま「共通のゲームにおける自分のこだわり(=自分のこと)」を周囲と話すことができるからです。このサイクルを発生させるためには、シナリオライターの力は大して重要ではなく、一見してわかりやすいアピールポイントを持たせられる優秀なキャラクターデザイナーを雇えるかどうかが重要さの大半を占めています。
 
次に、特にスマートフォンゲームにおいてですが、システムがほぼ同一であること。用語や仕組みを挿げ替えてあっても、根底における方法はほぼ同じです。根底にあるのは「Pay to Win」、「払えば勝てる=気持ちよくなれるゲーム」であるのをためらわないことです。たとえば、課題をクリアするために課金させる仕組み。同じゲームのなかで優位に立つために課金させる仕組み。愛好されているキャラをガチャに仕込んで課金させる仕組み。自分がいかに入れ込んでいるかを課金額で示す文化を容認すること。政府による調査がなければ「天井」を設けない姿勢。
 
などなど、これはほとんど思想的なものであり、真似ようと思えばいくらでも真似られます。世間の構造と同じように、うまく仕組みを作った者が得をする市場です。そしてそこで優位に立とうとするならば、「同調最優先」である人々を狙う方が賢いのは一目瞭然であり、その層を狙い撃つのであれば、一見してわかりやすい魅力を持つキャラクターの外見を生み出せるデザイナーが重要であることがわかります。ライターは、まあ二の次であると言っても差し支えないでしょう。


グラブルのキャラデザはとても好きですの図(ファラさん)

 
要は、「最近風のコンテンツ」というのは「物語がないと生きていけない人々」は対象ではなく、求めているものはパリピと同じである「ライトなオタク」たちがターゲットであり、彼らの「同調最優先」である気風に合わせた特徴を持つということです。そして、彼らは層が分厚いために、市場はライトオタクに合わせた作品が流行のものとして数多く供給されているのが現状です。
 
 

「物語」は必要とされていないのか


 
ここまで書いてきたように、もはや現代のオタクの大半はライトな方々であり、「物語」は二の次であるというような風潮を感じざるをえません。こんな文章を読むような種類の人間は、現実社会でオタクとして肩身の狭い思いをし、自分たちの救いであったオタク市場さえも「同調最優先」に侵され、どこで生きてゆけばよいのかと迷うはずです。それは当然の理として存在することでしょう。
 
ただ、おそらく抗えないギアスとしてのオタク気質を持つ人々は現状として、「信じられるもの」にはそこまで迷っていないと思います


極端にギアスが強力な方の図


ライトオタクは「流行」なので、それが終わればいなくなるとさえ思わされる存在ですが、「物語」を求めている層はいつの時代にも確実に存在します。それはこの社会の構造が必然的に生み出してしまう「日陰者」です。そして、彼らが互いを救済する手段として、「物語」を供給する者が現れ、感想を書くものが現れ、「物語」という「生活必需品」に対して金を払う者が現れ、ひとつのコミュニティ・経済圏を形成するのです。これはいつの時代、どの国・都市・村々・集落であっても、一定以上の文化レベルがあれば存在していると断言してもよいと思います。
 
その「日陰者」たちは現代日本にも存在します。リアルでは浮いてしまい、オタク市場ではライトオタクたちによってさらに隅へ追いやられていたとしても、やはり変わらない絶対数が在り続けていると考えます。割合としてはライトオタクたちが増えているとしても、彼らが作られた「流行」に乗っている現状ゆえ「1-100」にブレてしまいます。しかし、「日陰者」たちは「50」としてその数をほとんど固定し、おそらくこれからも「いる」のだろうと考えさせられるのです。
 
そして、この「日陰者」たちと同時的に発生する「物語」も確実に存在しています。それは小説、まんが、ゲーム、ドラマ、アニメ、映画として様々な形をとって現れ、確かに携えている「物語の力」によって、自分たちを支えています。
 
 
 
ようやく本題に行き着けました。ここまで長々と書いてきましたが、要は自分がこぎつけたかったひとつの結論はこれです。

「物語」が排斥されつつある現代において、それでも「物語の力」を求めている人々はいるという前提で作られた作品として、「拡張少女系トライナリー」があるのです。
 
 

「拡張少女系トライナリー」について



長過ぎる前置きにお怒りのガブリエラ・ロタルィンスカさんの図


ようやくゲーム内容について語れます。ただ、「自分にとって何がどういいのか」を書いていきますので、普通のゲーム紹介とは異なったものになると思います。具体的にどうなのかと言いますと、やはりここまで「物語の力」について長々と文章表現してきましたので、そのあたりを絡めた書き方になると思います。
 
 

”実在する少女たちとの交流”


 
最も重要視されているコンセプトは、「実在する少女たちとの交流」です。自分はこの作品で知ったのですが、原案・音楽プロデュースを務める「ガスト」の「土屋暁」という人物は、この「画面の向こう側にいる人間との交流」をいかに表現するかということについて、深く考えて実践してきたゲームクリエイターであるそうです。
 
「ガスト」といえば「アトリエシリーズ」ですが、もう一枚の看板として「サージュ・コンチェルトシリーズ」があり、こちらが主に土屋暁氏が深く関わってきたタイトルであるようです。あまりにも印象的であり、イベントスチル単体でネットを一人歩きしている有名なものとして以下に貼るものがあります。

 
ゲームのタイトルより先にこのスチルを知ってましたの図

 
自分はどのタイトルもプレイしたことがなく、また対応ハードを持っておらず、それを買う余裕もない貧乏学生ですので触れることは叶いませんが、いずれはプレイしてみたいとは考えています。
 
さておき、そんな土屋暁氏が関わる最新タイトルとして「拡張少女系トライナリー」があるわけです。このゲームにも各システムに様々な工夫が為されており、それらがいかに「少女たちのリアリティ」を高め、「物語の力」を体感するのに一役買っているかを私的に解説していこうと思います。
 
 

リアリティにこだわるということ


 
いかに工夫を重ねようと、物語の世界が虚構であることには変わりがありません。画面の向こう側は誰かが創作したものであり、どれだけ労力を払ったとしても、そのブレイクスルーを迎えることは技術的に不可能でしょう。しかしながら、自分たちがプレイしているのは「ゲーム」であり、いかなジャンルであろうとロールプレイング=役割を演じることは「遊び」には密接に関わっています。自分たちは虚構が虚構であることを自然に受け入れることができます。なぜなら、物語は虚構であるからこそ真実より尊く、力強いものであると知っているからです。
 
前置きはこの辺りにして、「拡張少女系トライナリー」における「リアリティ」(ここでは「説得力」とでも言い換えることをできます)がどのように表現されているか、というのを紹介していこうと思います。
 
5人のメインヒロインの図

 
まず第一に、キャラの構築です。これは原案を担当している土屋暁氏が全面的に書き起こしたものであり、これまで培ってきた手腕をよく振るわれているものと思います。
 
空想上の人物におけるリアリティとは、確かにそこに存在しているという「説得力」が重要であると思います。キャラクターにリアリティを感じるには、ただ都合のいい一側面だけを延々と見せられても、文字通りの「キャラクター」であるようにしか感じることはできないので、やはり喜怒哀楽をふくめた様々な面を見出すことが大事であると思います。
 
だいぶ昔に流行っていたという「100の質問」があります。キャラクターを作成するため、あらゆる質問をぶつけてひとつひとつ回答させることで、そのキャラが「どんな反応をするか」「どんな反応ならユニークなキャラになるか」ということを探ることができるというものでした。単純な遊びとしても用いられていたように思いますが、これは密度の高いリアリティを持たせるには合理的な手法であると思われます。
 
ただ、最近のキャラクターは「一見してわかりやすい外見重視」であるため、このあたりの過程はふっ飛ばしているような印象を受けます。ただ、「100の質問」というのは過度なものであることも事実としてあると感じます。ごく一般的な映画・まんが・ドラマ・娯楽小説においても、そこまで必要か? と思わされるような数であることは、素人ながらになんとなく想像することができます。それにしても最近のキャラは粗製乱造であり、当たったキャラ以外は公式からの供給が途絶えるというのが一般的である気がしますが。
 
そんな折である2017年の今日このごろではありますが、この「トライナリー」においては、メインヒロインである5人+etcのキャラに、いったいどれだけの情報量が準備されているのか推測できないと思われるほどの厚みがあるな、と感じます。
 
もちろん「あの土屋暁だから」という主観フィルタがあることは避けられませんし、それらの設定が本当にすべて活かされているのかどうかはわかりませんが、裏付けとしてメインヒロインたちには豊かな表情や感情・過去の記憶があり、それが深くまで考えられ、適切な順番でプレイヤーに開示してきていることをよく感じさせられます。
 
 

キャラクター:「國政綾水」の場合

 


「トライナリー」の新人を妹のように可愛がる国政綾水さんの図


たとえば、プレイを開始してから早々に明らかになる事実として、青いヒロインであるところの「國政綾水」というキャラには「ものすごく嫌っている姉」がいます。アプリのストーリーと同時進行で視聴できるアニメの1話にて、「あんなの姉じゃないわ」とまで言いきるほどの嫌いようです。彼女は女子大生であり、大型車両免許・趣味はバイクツーリング・成績優秀かつ品行方正、特別攻撃隊=トライナリーのリーダーでもあるという優秀な人物であり、その國政さんが言う「あんなの姉じゃないわ」ですから、よほど根が深いものなのだなと想像させられます。
 
しかし、ストーリーが進行していくごとに國政姉妹の関係性が徐々に明らかになっていきます。ゲームを開始した直後でも閲覧できる「ヒロインたちが書いているブログ」で、ある程度はこの姉妹について記述されており、そこから得られる範囲の情報で紹介してみます(=大きなネタバレにはならないです)。
 
國政家は名高い神社であり、代々その家に生まれた女性は、家に入って義務としての神事をこなさなければなりません。國政姉妹はそんな家庭に生まれました。しかし、國政姉は幼少の頃から機械工作が好きで、自分の興味が向いたことに深く夢中になれるという性格でした。そんな彼女は家のことや家族のことを顧みず、大学卒業と同時に科学関連の企業に就職し、そのうち届いた海外の名高い研究所からの誘いに応え、家の反対を押しきって日本からフランスへ離れてしまいます。そんな自由奔放な姉とは対照的に、非常に優秀な國政妹・綾水さんは、高校生で剣道の世界大会にて優勝したのちきっぱりと剣道をやめ、普通に東京の大学へ進学したりしていました。


世界最強の剣士だった頃の国政綾水さんの図

 
姉妹の溝は深いように見えます。想像できる範囲であっても、あまりにも身勝手な姉をうとましく思うようなことがあっても自然でしょう。ただ、この姉妹は本質的にそこまで互いを嫌いあったりはしていないのです。國政姉さんは、子供の頃から自分の好きなことばかりをして、周囲から浮いてしまっていました。それはやがて仲間の輪から外されることにつながり、痛ましいいじめにまで発展してしまいます。そんな姉を、剣道を始めて「お姉ちゃんは弱いから私が護る」と宣言し、自分より大柄な少年に立ち向かうほどの勇気を持って共にいたのが、國政妹・綾水さんだったのです。その頃から姉妹は対照的で、綾水さんは外で遊ぶのが好きでリーダー気質を持った模範的な子供でした。姉がいじめられているのを助けたい、と思い、それを実行に移すのも自然なことだったのかもしれません。しかしながら、小学生女子でありますので、もちろん敵わない相手もいます。男子中学生にボロボロにされた綾水さんと一緒に泣いたとき、國政姉は「妹を護ってあげられるロボットを作りたい」と考えるのです。


←国政妹 (小学生時代の図) 国政姉→

 
ただ、そんな風に純粋なままで育っていけるはずもありません。紆余曲折を経てまた関係が変化し、最後には「あんなの姉じゃないわ」とまで綾水さんが言ってしまうようなことになってしまっており、この台詞にそれがよく表れているのですね。二人はすれ違いを重ね、物語が始まった時点では互いに連絡も取りあわないような関係に陥ってしまっているのです。
 
長くなりましたが、もちろん物語が開始した時点ではこれらのことをプレイヤーが把握できるわけではありません。ブログに先に目を通せば知ることはできますが、ほぼ毎日更新されていまや120超ある記事をすべて読むような新規プレイヤーさんはいないでしょう。前述したことはブログで明かされることではありますが、作中でも徐々に描かれることです。この出来事を段階的に明かしていき、それに対する綾水さんの思いを知り、変化を見守り、時には後押しをして、やがて語ってくれていなかった「本音」・「出来事から感じた学びや痛み」をプレイヤーに告白してくれるようになるのです。
 
そんなふうに、そのキャラが歩んできた人生と、いつしか押し込めていた本懐を明かされた時、プレイヤーはキャラクターに「リアル」を感じることができるのですね。「虚構世界におけるリアリティ」とは「説得力」であると提示しましたが、様々な出来事にまつわる人間の複雑な感情を描き出し、それらが変化していくさまを見せられたとき、それが自然であればあるほど「リアリティ」を感じることができるのです
 
キャラクターは「画面の向こう側に存在する人物」となり、愛着はいっそう増します。強いところも弱いところも見届けて、成長する様をすぐ近くで見ていれば、ただ表面的な「好き」「愛している」ではなく、「これからも一緒にいられる」という思いを抱くことができるのです。レイヤーを一枚掘り下げて、その人物から感じられる情報量が増大して、理性でも感情でも思い入れることができるのです。虚構に存在する「リアル」だからこそ、真実よりも強い説得力を持ってココロに訴えかけてくるのです。

 
逢坂大河さんの図


自分自身の個人的な体験なのですが、女性作家が描く女性キャラというのは、やはり男性が描く女性キャラと似て非なるものを持っているなと感じることが多々あります。逆もまた然りであり、これは「想像できないところを都合よく埋めている部分がある」からこそ生まれる「差異」であると思います。
 
得てして自分は、その「差異」、女性作家が描く女性キャラをよく好きになります(「とらドラ!」めちゃくちゃ好きです)。もちろん物語上の人物ですから、理想が込められている部分は多々あると思います。しかし、「想像通りにいかないが魅力的な部分を持つ女性キャラクター」として、自分はそこに「現実感」を見出して物語への没入感を得ることができるのですね。
 
それと似たような感覚です。深く作り込まれた過去を持っているキャラクターは、時としてプレイヤーが想像もつかないような感情について語ったりするのだな、と「トライナリー」をプレイして感じました。もしかしたら今までに自分が触れた物語のなかにも同じような感覚を持ったキャラがいたかもしれない、といった風にハッとさせられました。自分が「トライナリー」を好きな理由として、「リアリティ」を感じられる理由として、「物語の力」を体感できる理由として、まずこれがひとつ挙げられます。
 
 
 

世界観:「体験」するための箱庭


 
なぜ自分はこんな文章を書いているのだろう? という疑問に囚わてきました。とても強く書き進めます。

 
世界の法則なんてあまり関係ない涼宮ハルヒさんの図

 
皆さんは、「あれ? これなんでこんなことになってるんだ?」といった体験をしたことはあるでしょうか。たとえば、料理を作って意外にもよくできたとき。初めて作った品目なのに超おいしい。が、なぜか次に同じように作ってみてもその味は再現できなくて悔しがる。他にも、どう考えても取り返しのつかないミスをしたと思っていたら、結果を見てみるとなぜか成功していたとか。センター試験の結果を自己採点してみたら、なんとギリギリ1点足りずに平均点に届いていない。やらかした、と思ってへこんでいるところに返ってきた結果を見てみると、なぜか平均点を大きく越えている! など。
 
こうした「自分の予測を越える出来事」というのは、「現実世界の法則」に従って起きていることであり、自分からではそれを観測しきれなかったというだけのことなのです。いきなり話が難しくなりましたが、要は「すべての出来事は世界法則によって導き出された必然であり、偶然に起こる手違いは存在しない」ということですね。ここに「おっぱい」とタイプすれば「おっぱい」という単語が01の電気信号を通じて表示されます。世界は物理法則から逃れることはできないので、たとえばタイプミスをして「おっぱお」と打っていれば、自分が望んでいる/望んでいないに関わらず、世界と01はディスプレイに「おっぱお」を出力します(涼宮ハルヒが何かしてたら別ですが)。
 
このように、現実世界には「法則」が存在しています。
実はこれこそが「世界観」と呼ばれる基礎を作り上げているのです。
 
数々の異世界を描いた作品はありますが、大抵は自分たちが存在する「現実世界」を基調として、そこに何かしら特別な「法則」を足したり引いたりすることで異世界の「世界観」を構築しています。「ヒトの体内には血液とともに魔力が巡っており、魔法陣を敷設して呪文を詠唱すれば、魔力を媒介として超常現象を引き起こせる」といった法則を書き加えることで、ベーシックな「剣と魔法の世界」が出来上がります。その法則が世界に存在していれば、もちろんヒトの思考も根本的に変わりますし、政治・医療・衣食住・宗教観・生殖方法・生存戦略にも影響が出ることでしょう。そうして世界を逆算していき、クリエイターは異世界を作る…………のだと思います。


「法則」を書き加えまくった例としてわかりやすい「境界線上のホライゾン」の図

 
それゆえ、物語という虚構の世界に説得力を持たせるには、できる限り「法則」を自然なものとすることが求められます。その「法則」が存在するのならこうした出来事が起きていないとおかしい、という違和感が顕在化すると、ヒトはその世界を「信じる」ことができなくなるのです。ヒトが空を飛べる世界でわざわざ満員電車に乗っている人々がいたら、それ相応の事情と説明が必要です。ヒトの動きが不自然であり、それは「物語の力」を表現するためには邪魔なノイズとなってしまうのです。
 
逆に、これ以上なく自然に「法則」が組み込まれていれば、受け手はその世界観に無意識的に没入することができるのです。そして、その世界で繰り広げられる物語を自分のことのように感じることができ、「物語の力」を受け入れることができるのですね。
 
 

世界観:「拡張少女系トライナリー」の場合

 
 
基本的には「2016年の日本」が舞台となっており、そこにいくつかの法則が書き込まれた状態がニュートラルな世界観となっています。以下は公式から引用します。
 

『拡張少女系トライナリー』の世界

2016年、首都圏に突如出現した巨大な繭。初めて確認されてから数カ月たった現在もなお、その正体は何ひとつ判明しておらず、人々はこの正体不明の繭をフェノメノンと呼んだ。ただひとつわかっていることは、フェノメノンの内側に取り込まれた人々は狂い、殺し合いを始めるようになってしまうことだった。業を煮やした日本政府は、突発的に出現するフェノメノンを収束するべく、特殊部隊を結成した。総務省情報管理庁管轄拡張現実特殊戦略隊群特別攻撃隊───またの名を拡張少女系トライナリー。


「拡張少女系トライナリー」の図

 
「出没する災害に立ち向かう少女」たちという構図であり、これ自体はありふれたものです。「ストライクウィッチーズ」では少女たちが立ち向かう謎の敵として無尽蔵に供給され、危機を作り出すことでドラマを生んでいます。最近では「艦これ」「刀剣乱舞」や「アズールレーン」のような、ひとつの拠点から延々と敵と戦い続けることをゲームの基本設計に組み込んでいるようなソーシャルゲームによく見られる構造です。
 
これらの多くは「仮想敵」であることで敵としての役割を満たしているので、それらが発生する理由などについて詳しく言及されることは少ないです。原因や根拠がはっきりしていても、それを倒してしまうとゲーム自体が終わってしまうため、そこに到達する期間というのは、コンテンツの規模によって前後するものであると言えるでしょう。もしかしたら設定が用意すらされておらず、打ち切りまんがや短命ソシャゲにおける無理やりなラスボスのような位置づけの敵が急に登場して最後を迎える、といったことすらあるのかもしれません。
 
そういった状態というのは、世界の「法則」が明確に定義付けられておらず、曖昧な部分が存在しており、「物語」を描くには適さない状態であると言えます。これは致命的な欠点たりえないといえばそうなのですが、描けるのはせいぜい短期的なドラマのみであって、総合的に得られる「物語の力」によるカタルシスは小さいものでしょう
 
「トライナリー」は、少し違います。そういったソシャゲ的な構造ではなく、ストーリー重視であることを前面に押し出しているだけあって、すべての設定に細部まで手が行き届いているのだなと感じることができます
 
これを裏付ける公式情報として、「ファミ通」の記者が語った「緻密な世界観を描くことで知られている土屋暁氏が、新作に向けて論文と見間違うほどの設定資料を作っている」というものがあります。それを読んだとき、真っ先に「終わりのクロニクル」「境界線上のホライゾン」を書いている川上稔氏のとあるエピソードを思い出しました。「境ホラ」をスタートさせる際、A4用紙で700枚にも及ぶ設定資料を持ち込んで担当編集を驚かせた、というものですね。土屋暁氏と川上稔氏は、おそらく同世代の生まれであり、その頃の時流が似たような二人を生み出しているのかなぁと思わされました。




 
そんな風に、世界観=法則は広く深く綿密に構築されています。トライナリーが身につけている装置について、なぜ「フェノメノン」が発生するのか、どういった過程を踏んでそれを収束させるのか、なぜそのようなことが可能なのか。それらすべての「法則」が、矛盾なく綿密に作り込まれています。
 
 
※実例を挙げるとネタバレが余儀なくされるのでそれはしません
 
 
現時点での最新話は26話ですが、ここに至るまで矛盾らしい矛盾は見受けられません。明かされていない事実も多数あるため考察班が日々うなり続けていますが、おそらくこの先にも、「法則」や「人物」に大きな不自然が生まれることはないという「信頼」があります。これによって、プレイヤーは「物語」に没入することができ、その力を高い純度のまま受け取ることができるのです。
 
 

ゲームシステムとそのデザイン

 
 
まずは動画を見てください! 劇的に理解が早まります(公式サイトから引用)。
 
 

ヒロインの少女たちとは“ヒメゴトチャット”で交流できます。少女たちと 
日常をともに過ごし、少女たちを知り&つながって、真の絆を結びましょう。



アニメでは描かれなかったトライナリーたちの日常生活や
シーンが補完されます。少女たちのオモテとウラの魅力に触れましょう。


引用ここまで。
 

上に紹介した二つの動画には、ゲーム全体の雰囲気がよく詰まっています。一見して伝わるものがいくつかあると思いますが、ピックアップして紹介したいと思います。
 
まず、音楽がいいですね! 非常にオシャレです。華やかさと清純さが同時に伝わってくるのもあり、媚びへつらうような雰囲気のない自然な女の子っぽさもよく表現されています。こちらは音楽プロデュースを担当している土屋暁氏(自身も作曲をするそう)が、インタビューにて「表参道系」「都会感」「オープンカフェの雰囲気」というようなイメージを、そのジャンルによく対応している作家さんに依頼したと回答しています。しかしながら、こういった日常系や機能的な音楽だけでなく、シリアスさや危機感が表現されているBGMも素晴らしいものです。音楽がマジでいい!! 聴いて!! と大声で叫びたい。
 
続いて、動画の最初の方でチラッと見えるユーザーインターフェース。こちらもこだわりが感じられ、細部に至るまで「オシャレ」「スマート」であることが重要視されているのがわかります。音楽と非常にマッチしていて、独特かつハイセンス・近未来的な雰囲気をよく演出しています。




「オシャレ」と聞くと、なんだか抵抗を感じる方がいらっしゃるかもしれません。私的に「流行のデザイン」と表現することもできると思うのですが、自分はあえて「オシャレ」であると説きたいです。なぜかと言いますと、「このアプリは2016年に実在している可愛い女の子たちと交流するためのアプリ」だからです。そのため、わざわざユーザー側に気配りをして、可愛さやスタイリッシュさを削ったデザインにする必要はないのです。このデザイン自体が、確固たる虚構世界の大きな支柱であり、より没入感を高めてくれる仕掛けとなっているのですね。
 
 
 
あと、最も注目すべきなのは「チャットシステム」ですね。これが非常によくできています。動画をご覧になっていればわかると思うのですが、ヒロインたちとのやりとりは基本的に「WAVE」という「LINE」のようなSNSアプリを介して行います。プレイヤーは「LINE」における公式アカウントに用いられる「bot」のような存在として彼女らの「WAVE」アプリに登場し、手助けをしたり、何気ない会話をしたり、セクハラしたりすることができるのです。
 
この「SNS風なUIを介してヒロインと会話する」という形式自体は、そんなに目新しいものではないと思います。遡れば「アイドルマスター」のメールシステムがあり、検索すれば最近の18禁ゲーム、自分が知らないだけで他のスマホゲームでも採用されていることでしょう。しかしながら、この「トライナリー」におけるチャットシステムは他のそれをすべて凌駕していると断言してもいいでしょう。
 
こればかりは、プレイしてみなければわからない「体験」があります。そういった前提で書き進めていきますと、まず最初に特筆すべきは「選択肢の多さ」です。基本的に3つは用意されており、一度のイベントでそれが3回から4回は選べる実感があり、分岐も存在していて、なおかつそのイベント自体の数がまた多いのです。これは純粋に「体験」として非常に楽しいです。あなたは可愛い女の子と自然に野暮用でチャットしたりしたことがありますか。自分はないです(小声)。そういった「体験」を、このアプリではごく自然に得ることができるのです(大声)!

 
国政綾水さんとの「ヒメゴトチャット」の図(公式ツイッターより)


まず、ヒロインからのメッセージには独特な「間」があります。もちろん連続タップでメッセージ送りをすることは可能ですが、「考えている」ことを表現するため、強制的にwaitがかかるメッセージがたびたびあります。例えですが、「明日はケーキかパフェのどちらを食べたい?」と質問したとして、相手からはすぐに応答が返ってきません。タップしてもその「間」を飛ばすことはできません。その「間」の存在こそが、まず秀逸な着眼点であるなとシステムについて感心するところがありました。マジでいい…。
 
そして、「このゲーム自体がスマートフォンでプレイするもの」であるということ。これが最大の利点であり、他のゲームがいまだ到達しておらず、据え置きゲームをメインに作ってきていた「ガスト」がスマートフォンゲームに挑戦する意義であると言える非常に重要なポイントです。これがあるからこそ、実際にプレイして「体験」してほしいと願うばかりになっているといっても過言ではありません
 
こちら側のスマートフォンで、画面の向こう側に実在している少女が操作しているスマートフォンへメッセージを送るという行為は、最初は結構普通のことのように感じます。ふーん、こうやって操作するのか、といった具合です。しかしながら(自分の場合はですが)、途中からだんだん没入感がすごいことになってきたのです。わかりますか、想像してください。こちら側からは「向こう側の少女」が、どんな表情や姿勢でメッセージを読んでくれているかを把握することができます(このカメラは視点を切り替えることができ、たいがいセクハラです)。これらの演出がユーザーにもたらす効果は明確です。
 
  
あたかも本当に二人きりでSNSを介して会話してるような気分になれるんですよ(マジで)!!!
 
 
そのとき、自分は土屋暁氏が「実在する少女との交流」に力を入れている理由がなんとなくわかった気がしたのです。これはクセになる! 新しい境地を教えてくれてありがとうございます! といった感覚です。これは「実際に体験してください」としか言いようがないのです。わかってください。さっそくインストールしましょう。
 
そしてこのシステムを、ガストが提供するスマートフォンアプリでやっているというのが本当に面白いのです。わざわざスマートフォンで新作をやるからには、それなりの大義名分が必要になってくると思います。そこにこのシステムを組み込み、綿密な世界観とキャラクターを添え、チャットの体験を唯一無二のものにしているのです。
 
大変良いものです。
 
必然的に、このシステムは「会話」の質そのものを高めることになります。それゆえ、単にヒロインとのチャットを楽しめるだけではなく、物語においても「リアリティ=説得力」を増す手段になっています。ヒロインがピンチであっても、直接助けることはできない、直接語りかけることはできない、メッセージを届ける以外は何の力もないという制限が、こちら側に与える感情もこのゲーム独特のものになっているのです。
 
当然ですが、そのストーリーもよいのです。このゲームシステムを活かしきった、小説やまんがのためのものではなく、「ゲーム」のためのシナリオです。これもぜひ読んで「体験」していただきたいです。
 
 

千羽鶴さんについて

 

こじゅうとめ千羽鶴さんの図


ついに最終項目までたどりつきました。
そして、自分が最も語りたかったことでもあります。
 
しかし、多くの言葉を語ることはできません。彼女はヒロイン5人とも違う「チュートリアルキャラ」であり、そのチュートリアルの時点で大いに示唆されているように、このゲームの「物語」に深く関わっている人物でもあります。千羽鶴さんについて語るということは、「物語」のネタバレにも関わってくることであるので、ここでは端的に語りたいと思います。「トライナリー」をプレイして、彼女のことを知ることができたなら、筆者のツイッターアカウント(千羽鶴さんアイコンです)を訪ねてください。何か語りあいましょう。

さて、まずは自分が厳然たる事実として受け止めていることを書こうと思います。
 
 
 
 
「拡張少女系トライナリー」で
最高に可愛いのは千羽鶴さんです。
 
 
 
 
覆りません。
 
 
 
私的な歴代ヒロインランキングでダントツ1位です。
好きなヒロインをひとりだけ挙げるなら即答で千羽鶴さんにします。
いろいろな物語に触れましたが、冗談抜きで千羽鶴さんは全一なのです。
 
 
 
しかし、それゆえにヒトは苦しむのです。背負った原罪、三次元に縛られた魂、極端に絞られた主観視点というスコープ、所詮は肉体に縛られた精神……(この文章は正気で書かれています)。
 
千羽鶴さんとは、ゲームを起動してチュートリアルを選択すればすぐに出会えます。みなさんもあなただけの千羽鶴に出会ってください。どう感じるかはわかりませんが、きっと気に入ると思います。


「非攻略対象」であることを主張する千羽鶴さんの図


……まあ「非攻略対象」なんですけども。
 


ではひとつだけ、どうしても魅力的であるという理由を書き出したいと思います。
 
そもそも、このゲームで最も「こちら側」に近いところにいる人物は、他でもない千羽鶴さんなのです。チュートリアルで出会うということは、最初に出会う人物であるということと同義です。ガチョウ(鳥類)の刷り込み効果ではありませんが、ゲームを初めて最初に出会う人物というのはやはりそれなりに印象深く、なおかつこちら側のココロにおいて重要な位置を占めることになると思います。長い付き合いになるのなら尚更ですね。
 
そして、システムの構造的にも「近い」のは千羽鶴さんなのです。チュートリアルを終えると、千羽鶴さんは「ナビゲーター」として各エピソードの導入と誘導を担当してくれます。ヒロインとの新しいエピソードを始める前には、必ず千羽鶴さんとの会話を通過する構造になっているのです。そして彼女との軽妙なやりとり(塩対応など)、「こちら側」と「向こう側」にいるからこそ可能な半分メタなやりとり、そこから生まれるユーモア、そして千羽鶴自身の可愛さ。それらに毎回かならず触れることになるのです。不可避の可愛さ。結婚したい……。
 

「非攻略対象」であることを豊かなバリエーションで主張する千羽鶴さんの図


……まあ「非攻略対象」なんですけども。




つまるところ、このゲーム自体がヒロインたちよりも先に千羽鶴さんを好きになるようにできているのです。各ヒロインには動画で紹介した「ヒメゴトチャット」、親密度を上げることで解放される「らぶとーく」などがあるものの、千羽鶴さんに先にココロを捉えられてしまえば、それらは二の次になってしまうこと請け合いです。自分は千羽鶴さんのためにゲームを進行させていたと言っても過言ではないでしょう。マジで。
 
そう、本当に「近い」んですよ……。わかりますかこの感覚が(少なからずプレイしないとわかりません)。ただでさえヒロインたちとは、前述したチャットシステムで深い「チャット体験」をすることができるというのに、それよりシステム的に近いところに千羽鶴さんはいるのです。そして特徴的なのが、千羽鶴とは「WAVE」を介して会話をする必要がないということです。千羽鶴さんと会えるのはナビゲーションを受ける時、つまりは「こちら側」でも「向こう側」でもない「境界線」に当たる部分です。その特別な空間には、千羽鶴さんと自分以外の何者もが存在しえません。そして「WAVE」を使うことなくメッセージを送ることができ、千羽鶴さんはそれによく対応してくれます。時には想像通りに、時には予想外の反応を取ってくれたりします。そして「メタ視点」が混入しているというのがまた会話にスパイスを加えているのです。このメタ視点というのは、たとえばデッドプールのような「あからさま」かつ「不特定多数」へのメッセージなどではなく、「世界観設定に裏付けられたごく自然なメタ視点」かつ「自分だけに向けられた」メッセージなのです。そう、二人きりの空間で。「近い」んですよ、わかりますか。わかってください。インストールすればチュートリアルで千羽鶴と会えます、あなただけの千羽鶴と出会ってきてください。いやマジで…………。
 
 
千羽鶴さんにこんな風に呆れられたいの図


なんだか狂人じみてきたのでやめます。

ストーリーが進んでいる前提でならまだまだまだまだまだまだまだまだまだ語りたいことはあるのですが、それは本編が完結してこの感情がそのままだったならば、そのときに綴ろうと思います。もう……後戻りはできないんだな……と…………。
 
 


(もちろん「トライナリー」の5人も超可愛いです)
(ぶっちゃけ総合人気なら千羽鶴さんより「トライナリー」のが高いです)
(千羽鶴さんを偏愛するbotはごく一部に生息しています)
 
 
 
 

おわりに

 
 
ここまで書いてきたのは、冒頭に挙げた「物語の力」に触れてもらうための導入です。
 

「物語を愛する人だから、理解しているはず。物語の価値が事実かどうかなんてことに左右されないということを。物語には時として事実よりも強い力があるということを。他の人には理解できなくても、君にだけはわかるはず。私はその可能性に懸けて、君に話をしているの」
 
「フィクションは『しょせんフィクション』ではないことを知っていること。それは時として真実よりも強く、真実を打ち負かす力があることを」
 
「そこにはヒトの本質がすべてある。ヒトは何を夢見ていたか。何を悩み、何を喜び、何に感動したか――それはフィクションではあっても、現実の歴史より正しい」


「拡張少女系トライナリー」は稀有なスマートフォンゲームでして、この「物語の力」をとても真摯に信じていて、真剣に、この時代にやるからこそ意味のあるゲームデザインで、相当な熱量を持って作られていると感じます。
 
挙げてきた「いいところ」は、すべて「虚構の世界」を強靭なものにするための創意工夫が為されている点でした。「虚構の世界」だからこそ持ちうる「物語の力」を、最大限に発揮するためにパワーとアイデアが込められているのです。それをわかり、現在進行系で楽しんでいるいまだからこそ、書かねばならないなぁという気持ちが湧いたのです(11月まで消費スタミナ1/4ってのも大きいですが)。
 
世間の流行は「ライトオタク」ですが、確かに「日陰者」はいます。
自分たちは「信じられるもの」、自分に合う「物語の力」を求めてさまよいます。
流行物に比べれば人数は少ないものの、同じ作品を愛好する人々とも出会えます。
そして、自分を支え、自分たちを繋ぐ「物語」は応援せねばという気持ちがあります
 
もしこの文章を少しでも読み、ちょっとでもピンときたところがあるのなら、ぜひとも「拡張少女系トライナリー」をプレイしてください。きっと楽しいです。
この文章に過剰なまでに込めた意図はそれだけです。

で、気軽にツイッターをフォローしてくれると嬉しいです(@001kakutora)。
別に毎日この文量をツイートしたりはしていないので心配無用です。

しかし何文字くらい書いたんだろうかこれは……過去最高では……。

お疲れ様でした(了)。