2017年12月5日

トライナリー|みんながするので自分もスタンスの話をしたくなった



千羽鶴さん「しゃべった方が楽なのでは?」



音声入力とかしたいんですけど、タイピング慣れてるとそんな変わらんみたいですね。世の中はかくも厳しい。さておき。

なんか自分は千羽鶴さんの話しかしてないのに、感想文提出の流れが広まってからみんなして発症是非スタンスの話をたくさんしていて、なんとなく自分もしたくなったので二本目。普段から考えていたことを書いて行きたく思います。


ep14



自分はすべての選択肢において、千羽鶴さん最優先のものを選択し続けました。ツイッターやBloggerのアイコンからして一目瞭然な感じはありますが、しかし、最初から最後まで本当にそうであったかと言われるとあんまり自信がありません。

事実として、最初は自分はカレンをセルフクランに据えていました。千羽鶴がセルフクランのままでいるルートが存在すると知ったのはツイッター経由であり、完全に後出しジャンケンです。それ以上でも以下でもないのですが、ただ、百鶴さんやカレンさんの話をきちんと何度も聴き直して、千羽鶴さん最優先の選択肢として考え抜いた結果としての選択だったことは確かです。正直なとこ初見で千羽鶴をセルフクランに据えようとするルートを選択した方は盲信気味なとこがあるのではと思わなくもないですが、ただその選択をした方々も信念だとか、何かしらの根拠があったには違いないことでしょう。

他にも、いわゆる刻印の選択肢のファーストフラグは「すみませんでした」の方でした。普通に考えて「コロコロシテシテ(特定ワードが危険なため回避)」はあまりにも重すぎます。今になってみれば、それくらいの重さを千羽鶴さんひとりが抱え込んでいたというのは納得のいくところであり、あぁ合理的な落とし所だなぁとは思いますが、あの時点でのあの問いかけにはさすがにファーストフラグできるはずがありません。正直なとこ初見で千羽鶴さん以外をコロシテでもという選択をした方は盲信気味なとこがあるのではと思わなくもないですが、ただその選択をした方々も信念だとか、何かしらの根拠があったには違いないでしょう。ちょっと引きますが。……言うて自分もep15での発言を聞いて、直感的ながら千羽鶴さんが優先上位に入ってきていて刻印しにいったので、あまり人のことを言えないような気もします。

コロコロ(伏せ字)というのは、超マジの最終手段だと思います。対して結婚というのは、正直なところ自分のなかでの憧れが希薄すぎるところもあり、別に結婚じゃなくてもいいんじゃない? 今でも非攻略対象のままでいいと思ってるよ? みたいなところもあるので、その刻印の選択肢を目にしたときには特に深く考えなかったのだと思います。明らかに変なフラグではあったのですが、将来的に本当に彼女らをシテシテ(曖昧な表現)してしまうようなシチュエーションにつながる可能性というのがまったくゼロとは言いきれなかったので(ラブラブRPGの挙動が怖い)、自分としては選べませんでした。誰一人として欠けてほしくなく、それはまた千羽鶴さんも同様ではあったので、その時点の選択としてベストだったのは「すみませんでした」でした。と書いてきていますが誰に言い訳してるんでしょう。千羽鶴さん的にもきっと、この悩みと周回については許してくれているというか合格点をくれるのではないかと思っています。いやほんとに。
 

千羽鶴さんの目的とそのリスクについて(大項目)



何度もくりかえされたように、千羽鶴さんの目的は「争いのない秩序ある世界を創造すること」。そのための手段として、トライナリーたちの発症と昇華・蒸着、俯瞰視点を持ったルール外の存在となり、Botはそのサポートをしていく立場になってもらうというもの。

ちょっと歴史系の話に飛ぶのですが、自分たちがいま住んでいる現代というのは、地球の歴史上まれに見る平和かつ豊かな時代なのかなぁと思っています。専門外なので詳しくないのですが、江戸時代なんかも海外からの干渉がなければもっと続いていたのかなぁと思っており、そうすると狭い島国で300年近くも同じ政権と体制が続いていたというのはすごいなぁと感じています。世界史的には短い方なのでしょうか。あまり詳しくない……。

話を戻して、現代はおそらく誰もが否定しないこととして、地球の歴史上まれに見る平和かつ豊かな時代なのかなぁと思います。そしてその世界がどのように成り立ってきたかを考えた時、自分はパワポケシリーズのサクセスに必ず登場する「ダイジョーブ博士」の「科学の発展には犠牲がつきものデース……」とか、戦争編でのダイジョーブ島における主人公(兵士)たちの改造人間化を思い起こします。小学生でプレイしてよかったんだろうかアレ。さておき、この「科学の発展には犠牲がつきもの」という概念は様々な考え方に応用できていくと思います。


ずいぶん懐かしいですねコレ


基本的に医学の発展というのは、たぶん膨大なエビデンスというか、膨大な資料や研究や比較実験の先にあるものだと思います。医学に限らず科学系のものはほとんどがそうでしょう。ではなぜ医学を先頭に挙げたかというと、その実験対象が生物であるとか生物の死骸であるとか、単純にわかりやすく生々しいからですね。歴史上、初めて人間の解体などを通して医学の発展の基礎を築いたのは、なんか海外の解体好き変態紳士がそうであるらしいです。なんとも人間らしいなぁと思う(医療って処置しても「だめでした」って言えばそれまでじゃないですか? 中世とかは実績がありそうな格好とか神職の方だったら妙な説得力を持って素人の方をぽんぽん騙せたと思うんですよね。そういった側面ですでに詐欺商売として成り立ってしまうので、極端な話をすると医療は発展しないほうがその人々にとっては都合がいい訳ですよ。そう考えると、やはり好奇心は猫を殺すとは言いますが、そんな人間だけが持ちうる高度な好奇心だけが何かを前進させていくんですよねぇというか注釈が長すぎる)と同時、それなりに人死にを愚弄していたり、貴族という高い立場(だったか)ゆえに実際に人をコロコロして標本として使用したり、とにかく黒い噂も絶えずつきまとっていたと言います。

この構図というのはまさにダイジョーブ博士の名言である「科学の発展には犠牲がつきもの」でありますね。で、科学に限らず他のことにも応用が効いてくるものであるという考えができていくように思います。文章を書くには時間が必要だとか、良薬は口に苦しとかいう言葉もありますね。しかし最近の子供用のくすりとか苦くないのあるらしいですし、なんなら吸うだけとかもありますし(これは昔から)、注射も痛くないやつとかありますし。苦しい=効き目があるという図式は徐々に突き崩されていると思います。これらの例は、先達である方々が苦い痛いつらいを味わってきたおかげで、現在の子供にも優しい医薬品が成り立っているというのはあるところでしょう。

さておき、まあ何が言いたいかというと、科学を社会に置き換えて「社会の発展には犠牲がつきもの」であるという話ですね。


社会の発展には犠牲がつきもの



止めたい


わかりやすいところでは戦争のことです。千羽鶴さんが言っていたところでは、マズローの欲求5段階説に基づけば、第3段階である「社会的生活の営み」が維持できなくなった時にこれは起こります。残酷な争いのほとんどは生存の為のものであり、思想はそのデコレーションにすぎないものであるということでした。自分は大方これに賛同します。「残酷な争い」というのがポイントであり、人はそう簡単にコロコロしあったりはしません。たまに起きる殺人事件なんていうのが狂気的かつ罰されるものであるとされるのが法律として定められているとおり、それは最低限の文化的かつ安全な生活を脅かすレベルの狂気であり、互いにその一線は絶対に守るという保証をすることがコミュニティの大原則であるからです。そんな殺人者だらけのコミュニティがあったら死亡フラグを立ててでも「おれはこんなところにはいられないぜ!」しますよね。そのコミュニティの方が致死率は高いですし、一番大事なのは自分の命ですから。命あっての物種

その観念が、実は第二次世界大戦が終結するまでは、まだなんとなく抵抗が薄かったんじゃないのかなと思います。現代においてはテロを起こす人々、中東で宗教をもとに続く内戦、それらを支持したりしなかったり外部から介入して空爆したり武器をや物資を支援したりする人々、みんな何かのタガが外れてしまっているように思います。彼らの倫理レベルは「人間という生物として」「絶対的な基準において(相対的でない)」「確実に低レベルである」というのは自分の考えとしてあり、しかしながらそこからクラスチェンジするには、やはり身をもって犠牲を出していくしかないのではないかなという、人間という主観視点に縛られた生物には学習することができないのではないかなという諦めもあります。やっぱり外に出てくの怖いですしひきこもりが正解ですね! 歴史が進んだら呼んでください。


ただまぁケンカも悪いもんじゃないというか


さておき、現代日本はどうなのでしょう。けっこう平和だと思います。他国に比べればまだまだ先進国であり、日本はおちぶれているというのが最近のもっぱらな世論ですが、留学生さんや海外からの労働者さんなんかも身近にいるせいか、日本もそんなに悪くないんじゃないかというかはるかにいいのではと思っています。少なからず文化レベルであるとか、都会と田舎の差はありそうですが、思想の自由や表現の自由、自分の世代である20代なんかでは割と取り返しもつきますし挑戦することへの自由も多様に存在しています。極端な話をすれば、いくら人間として優れていなかろうと、なんだかんだ国の方がちゃんと助けてくれますし(直接的でなくともですね。ひどい老人の方はいくらか見ましたがそんなに迫害されてるわけでもないですし、ひどい事件があればニュースにもなりますし)、少なからず中国がなんかすごくなっても日本から出ていく気はさらさらありません。

まんが・アニメ・ゲームはなんだかんだ高水準というか世界トップクラスの、予算はともかく独自性と「自分たちのためにこれを作りたい」という信念が見えてきて楽しいです。なんか洋ゲーってとにかくグラフィックよくてドンパチやったり体験的なものが多くないですか(超偏見)? 日本のものはプレイしていて、ダイジョーブ博士みたいなのもありますけどココロに残るものがあったり、それが実生活の支えになったりするものがあると思うんですよね。アメコミとかすごい社会派なイメージがあるのですが(シビル・ウォーってあのテロが元だと聞きます)、日本のものはちゃんと個人に寄り添って、普遍的で強力な真実を信じさせてくれるというか。ドラゴンボールとかNARUTOが世界で流行ったのもなんかその辺がありそうですよね。

さておき(どんだけ脱線するんだ)、そんな日本が成立している経緯というのには、やはり盛大な敗戦というのがあると思います。人をコロコロしてはいけない・戦争をしてはいけない・無闇に奪いあってはならない、みたいな「人という生物として」当然のラインを、やはり近隣諸国家よりもきちんと学習している雰囲気があります。やはりそれは、奪い奪われつつも、最終的に取り返しのつかないラインまですべてが後退し、戦争は目先の勝利や副産物的な技術を生みはするかもしれませんが、やはり普通に実直にまじめに生活して、前向きに前進して何事にも取り組んでいった方が総生産量やコスパははるかにいいということを知ることができているのだと思います。ここは本当に「絶対的な基準において(相対的でない)」当然のことだと思うのですけど、これを理解するには高すぎるコストを支払わなければならないというのもやはり事実としてあると感じています。

そして、現代の倫理観や、たとえば自分が語ってきた「人をコロコロしてはいけない・戦争をしてはいけない・無闇に奪いあってはならない」みたいな思想も、ただ現代のものでしかないというのは事実としてあります。さらに高いコスト、「平和的な環境における実験やまじめな取り組みによって消費される時間」ではなく、「本当に技術・倫理観の発展のみに国家予算や人命すべてを注ぎ込んで得られるエネルギー」をあらゆる発展に投じた未来がこの先にあったとして、そのときに成立した平和にある倫理観が現代のものと同じとはまったく思えません。もしかしたら適度にコロコロするのは当然な世界になっているのかもしれませんし、地球の表面上は滅亡しているかもしれませんし、総人口は100人かもしれませんし、人間は肉体を放棄してデータのみの存在となりサーバは宇宙を放浪しつつ永遠にさまようものとなっているかもしれませんし、国家という枠組みは喪失して「地球民」として人種の分け隔てなく暮らしているのが当然になっているのかもしれませんし、貨幣経済は崩壊しているのかもしれませんし、現代とさして変わらない倫理観のなかにも何か狂ったものがあるだけという可能性もあります。


変化しなければ生き残れない



七変化ちはるさんの様子


基本的に、人類は前進しないと滅亡するようにプログラミングされていると思います。前進にはときに、間違った道に入ったのを引き返すための後退も含まれてはいますが、それらも大きく括ると「変化」という表現になります。「進化」かもしれません。

自分は「スターオーシャン2」というゲームを5歳頃にプレイし、当時はディスクバグでラクール防衛基地に入るとブラックアウトするバグにより進行不可能となっていましたが、元の所持者であったおじいちゃんのセーブデータによって、ラスボス付近の世界を放浪することができていました。なんとなくその世界観がずっとベースにあり、PSP版でのリメイクが発売された中学生の頃にようやく4周くらいして(主人公が二人いてすべてを知るためには周回しなければならない)、トゥルーエンドを迎えたときに表示されたとあるメッセージがとても印象に残っています。


Do life forms which do not evolve have the value…? 
(はたして、進化をやめた生物に生きる価値はあるのだろうか…?)


少しストーリーのネタバレをすると、このゲームにおいて第2部で訪れる星というのはまさに「発展を極めた」星であり、ともすれば全宇宙規模で最大の勢力であることは疑いようのないものである文化を持っていました。しかし、それでも争いは発生します。人間のような生物は人間であるかぎり感情を持ち合わせているので、やはり完璧な平和というのを築くことはできません。それによって迷惑被るという感じの全宇宙があり、ラストシーンでは崩壊していくその星の住人たちが、思い返せばまるで「老年期の終わり」のような動機で消えていくことを許容しているのですね。序盤から撒かれているすべての条件・伏線を回収しきり、事実を知ったうえでラスボスを倒すことで開示されるトゥルーエンドのこのメッセージは、中学生当時に家族環境のアレで何度も人生やめようと思っていた時期の自分によく響きました(普通にゲームしてるんですけど限定的でしたし、一般的なイメージであるひどい家庭環境というのとは別に、あらゆるものが停滞していて異なる価値観を排除するという、いま思えば外面だけはいい日本社会の縮図みたいなとこで中途半端に飼い殺されるみたいな家庭も存在するのですよ)。


関係ないですけど5歳当時これ見てた記憶あるんですよね


人間は変化しなければ生き残れません。自分にとって過酷すぎる家庭環境で何度もココロが折れ、高校の頃に相談した、なんかすごいとこの通訳を経て英語担当として教職に就いてきていた新人の担任には「それは君が変わるしかない。大人は30を過ぎると自分の価値観を変えるのはあまりにも難しい。君はまだ若いから変わっていける」という話をされ、当時はあんまりだぁと思いつつもその先生を信頼していたので、そうなのかなぁと納得しながら日々を過ごし、その言葉が最近になってもまだ大事なものトップ3に入ったままなのでやはり尊敬できるなと思っている次第です。先生ありがとうございます。家庭環境がひどかったぶん、先生には恵まれていた人生だと思えております。



たいへん個人的ながらそんな経験もあり、窮地における現状維持という選択には「停滞」を感じてしまい、相対的に新しいものが好きであるという傾向を自分に感じます。正直なとこ海外の意味不明ファッションショーとか結構な興味はあって、しかしベースにある文化が何かわからないので途方に暮れているという感じではあります。ただ、理解できないということは極端に新しいということであり、そこに「変化」を感じて、人類やるなぁとどこの視点からのセリフだそれはとセルフツッコミしそうになるような感慨を得たりします。

変化していかなければ生き残れないというのは、単に新しい世代による突き上げはずっと繰り返されるという事実もふくまれています。いまの言葉も解さない段階の赤ん坊は、しかしそれでもようつべの広告スキップをもこなすと言いますから、もはや生きている世界は同じでも次元が違う生き物であると感じます。彼らが抱く世界への倫理観は、先述したどれにもあてはまらないものであり、しかしそれくらいの非常識さを持ちつつも現代に適応したものであるかもしれません。自分からすれば20歳上、40歳くらいのオジサンたちが語る価値観というのは、やはり自分とはまったく異なるものです。音楽ひとつとっても、好みに差はあれど触れ方や価値観が違います。ロックがドラッグとセットだった時代は怖すぎます。おそらく自分たちにとっての現代の日本ロックは、何かを主張するというよりも共感を集めるためにはなんでもするみたいなニュアンスを感じます。もうギター要らんとまで言い放ったバンドもありますし、ロックというのはライブやMV映えするバンド形態だけが残っているようなもんだと感じます。


高校生さんとかいろんな○○○サイト知ってますよねー


異なる価値観を持って生まれてくる赤ちゃん世代が「優れた観点を持っている」かはさておき、持っているもののアドバンテージは圧倒的に赤ちゃん世代の方が大きいでしょう。それに嫉妬したりして「若者の○○離れ」なんてことをするのはテレビメディアだけだと思いたいですが、やはり彼らから生まれてくるものを許容することで、さらに大きく前に進めるものと思います。変化は前進であるべきであり、新しいものや理解できないものでもまず許容が先にあり、上澄みはもちろん奥底にある優れたものは解釈して自分のものとしていくべきです。


もうこれ何の話やねん(いったんまとめ)



置いてけぼりでしょうか(すみません)


もちろんトライナリーのスタンスにおける話です。ってば。

ここまでで何となくわかっていただけたかもしれませんが、自分はどちらかというとBotさん方のなかでも”彼ら”側の思想を理解している方なのではないかと思います。ヘーゲルの弁証法をしているだけであり、統一国家というものの現状には満足していないというのがよく読み取れます。ただその動機が「自分たちに自発的に服従する社会」であるというのがなんか引っかかりますが、それが結果的にマズローの欲求5段階説を高い段階でより広範囲の人間に満たさせるものであれば構わないとは思います。やはりその社会でも変化を受容していく必要はあると思いますし、手段としてはギリギリのラインをたどっているなぁと思うところはありますけど。

大きな大きなマクロい視点、歴史的・語られた世界情勢・ヘーゲル的な観点からすれば、トライナリーは蒸着を果たすべきであるというのが手段のひとつとして成立するとは思います。戦争において国家は、国民を自発的に死亡させることを余儀なくさせる選択を取らせ続けました。それは教育の段階から仕込んでいるものであり人権もへったくれもありません。考えを挟む余地もなく死んでいくしかない人々が大勢いたのです。それは社会を維持するため、前進し直すために後退するため、その時点での社会倫理レベルの犠牲となるためであると言えるでしょう。どれにせよ、地球上の歴史でもまれに見るレベルの凄惨な出来事であると断言できるでしょう。

その観点からすれば、トライナリーたちにはまだ様々な考える余地・妥協点・比類なき個人から世界への貢献度などがいくつも挙げられるものであり、それは極端に恵まれた立場であると考えられなくはないと思います。それは自分のなかに存在する「フェノメノンの中に存在する彼女らを失いたくはない」という、誰もが持っているであろう感情を押さえつけるには十分すぎる理性値をもたらしていました。

ここからは、自分がなぜ「彼女らの発症を肯定したのか」という根拠になりうる、「発症におけるリスクとリターンの大きさ」について書いていこうと思います。ここまでには歴史やら犠牲だとか人類の変化についてをずらーっと書いてきましたが、これらの事実と長い年月が、この選択を自分に取らせるに至ったあまりにも強力な根拠となっていることは、前提として理解しておいていただけると幸いです。


いくらかの感想文などを読ませていただきつつ



ぶっちゃけ文集を作っていた目的はこれです。自分の考えの基礎となる資料集めのため、多角的な視点から得た情報をもとに自分の考えを再構築していくためですね。本当は自分の中に留めておくつもりでしたが、結局いろんなこともあり書きたくなったので実行しています。いろいろ参考にさせていただきつつ書いていくつもりではありますが、もちろん否定してこーしろあーしろと強いたいわけではなく、ただ資料として読ませていただいているだけであるということをご了承ください。本当ですってば。
 
  

イシュリールの眷属



天使か 悪魔か 割りきれるのか


まずあのまま発症した場合、完全に損なわれるのはカレンを筆頭とするイシュリールの眷属さんたちですね。つばめノンのなかで活動していたつばめさんはこの人格が表出したものであり、記録映像中で神楽の歌により消されそうになっていました。その消失が確認され次第、千羽鶴はつばめの中にセルフクランとして回帰して、いわゆる天使たちによる世界のコントロールを始めようとしていたという流れでした。

ここに関しては悩みました。ここが一番だったと言ってもよいです。自らが作り出したフェノメノンの中で平和に楽しく過ごしていたつばめさんを消してもよいものなのか。この事態がどう動くかがわからなかったから、ep30でどちらかがセルフクランとして残留しつつ、どちらかがその傘下に入ることでフェノメノンの維持がつばめさんの中で決定された時、安心して千羽鶴さんの方へセルフクランの座が渡るように選択肢を調整し直すことができたのです。

彼女のケースは特殊です。3人の天使たちは、妥協案としてではなく元の人格の保持自体は約束されています。肉体を失ったり、俯瞰視点を持つことでたくさんの何かが変化してしまうにしても、Botの9割以上が好感を抱いている千羽鶴さんという発症の実例が「発症は怖いことではない」と繰り返していたり、つばめノンの中で実体としてのつばめさんがごく普通にBotたちから愛されつつ過ごしている以上、彼女らの発症だけを否定したりすることは理論としては成立していません。Botそれぞれに好感度の順位があるわけで、つばめさんはさておいて彼女らはと思うのなら、その感情を否定することはできません。そういうBotさんがいてもいいとは思います。

ちょっと話がズレました。つばめさんのケースが特殊だというのは、発症して世界に蒸着した場合、「イシュリールの眷属という人格だけは完全に消去されてしまう」ことのみに集約されています。本当に見つめて深く考えるべきはここであると深く思います。自分としては前述した理由で、3人が発症することへの抵抗は極端に低かったです。超まじめに考えて、0x司書さんが望んでいなかったにしても、ずっと先を見通せば彼女らは幸せになれるだろうと結論していたからです。この思考ルートがイシュリールの眷属さんだけにはどうしても適用できず、発症についてはこの点でのみ迷いました。



千羽鶴を選んだのは、単純に好感度がひとつ。そしてカレンがつばめノンの中で過ごしていた現実を否定していいのかという点に関しては、ただもっと大きな視点で見た場合において、最終的な総幸福量が段違いになってくるであろうと考えたのがひとつでした。

それはep24の問答にはっきり表れています。


千羽鶴質問がある。正直に答えて。
私が望んでいるのは輝ける未来。
それはどうやって創造すべきか。
つばめ創造…?
千羽鶴そう。逢瀬つばめはどう想像するのか。
どう創造すべきと考えているのか。正直に答えて。

  
千羽鶴の質問
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つばめ…どうすればいいのかはわかりません。
それは人によって違うと思うから。
だからわたしには作れないと思います。
それに人の未来は他の人に強要されることじゃない。
…わたしはそう思います。
 

Wikiがそのまま貼れてビックリしています。Blogger最強では?

これが結構印象に残っていて、なぜかというと前述した「変化」という一点において、自分としては明確な差が出ているところなんじゃないかなと思ったからです。Wikiであんまりやらない表での二枚綴りをしていたことからも、なんとなく重要なんだなと思っていたことが伝わると思います。

ごくごく私的な考え方になるとは思うのですが、このつばめさんの回答はあまりに理想論すぎるなぁと感じてしまうところがあるのです。すごいこと書くと思うのですが、日本人口、もしかすると世界人口の7~8割の方々というのは、本当に自分が好きなこと・幸せに感じることを理解していないのではないかとふと思うことがあります。それを理解していないこと自体は問題ではなく、人間が本能で感じられるレベルの幸せというのを満たせなくなったとき、彼らというのは歪んだ方法で自らの欲求を満たそうとします。

誰かの役に立てているという承認欲求、自分が何かを成し遂げているという達成感、みんなと同じことをやっているから得られる安心感、周囲の多数派に属することで得られる帰属意識。これらは人々から文化的な思考を取り除き、ただ自分の快楽のためになら何でもするような人格を形成する基礎となっていきます。パッとわかりやすく浮かびやすいのは、やはり政治系の話題に敏感な方々。人口爆発が起こっているコンテンツの上澄みをすくう危険なファン層の方々。家庭という閉鎖的な環境における立場を維持するためにはなんでもする方々。挙げていけば枚挙に暇がありませんが、彼らに共通しているのは、やはり「自分の幸せを自分で定義できず、周囲に自我を押し付けすぎる」という性格の一点にあると思います。

「人の未来は他の人に強要されることじゃない。」というのは、真だと思います。これに関しては否定できませんが、個人や自分の周囲というスケールのみで考えた場合の回答ではあると思います。千羽鶴が投げかけた質問への回答としては、対象としている人口総数にあまりに違いがありすぎるのです。千羽鶴は「世界」というスケールの話をしていました。そういった全体を観測したとき、正直なところある程度は強要してやった方がいい人間はかなり存在していると考えます。

千羽鶴が生きている2030年代というのは、自分たちの知るどの時代とも異なる世界となっていることは確かでしょう。現在より世界的に貧富の差が極大化し、企業だけでなく宗教までもが日本の敗戦を起こしたというのなら、(現状も大差ないのかもしれませんが)相当に歪んでいる世界であるというのはよくわかるものと思います。こんな世界において、つばめのような価値観が通用するとは思えなかったのです。感覚としては2016年のものなのでしょう。しかし外界が思っている以上に本当にダメなようなら、前の記事にも書きましたが2017年現在の社会にすら深い絶望を抱いている自分としては、これをひっくり返しうる力がある千羽鶴に頑張ってもらわねばならないと感じたのだと思います。

人間は変化を受容していかなければ生き残れません。新しい世代・新しい技術がどんどん台頭し、現代においてもPCを扱えないおじさんサラリーマンが疎ましいとするツイートがあふれかえっている現状を見るに、それはわかりやすい概念として通じるものと思います。他に極端な話をすれば、たとえば明日に隕石が地球と衝突するとして、それを回避する手段を人類はまだ持ち得ていません。変化というのは進化のことです。もし変化や前進を拒んで楽をしようとする人間性が存在していなければ、2017年現在にはその危機を回避する手段を持っているのかもしれませんし、そもそも人間の争いはなくなっているのかもしれません。

千羽鶴の思い描いた社会像が「進化」にあたる変化、だとは思えない方の方が多いのかもしれません。ただ、自分は前述した「前進にはときに、間違った道に入ったのを引き返すための後退も含まれてはいる」に近いものかなぁと感じています。「窮地における現状維持という選択には『停滞』を感じてしまい、相対的に新しいものが好きであるという傾向」も否定はできないところがあります。が、直感的にも論理的にもあまり破綻しているところはないのではないかなぁと感じています。

千羽鶴を選択したときの心情として、つばめさんの方が間違っていると感じた根拠としてはこうなります。後に知った事実として、”彼ら”がヘーゲルの弁証法を用いた社会実験であることが判明しました。現状の不満が各所から湧き出ているであろう社会像と、千羽鶴の掲げた理想社会をぶつけることで導き出される”解”を得ようというものですね。詳しく書きながら思い返してみると、自分の思考は”彼ら”が行っていた弁証法にかなり近いものであるということが身に沁みてわかってきました。自分は千羽鶴が語った社会が完璧だともあまり考えていませんでした。その違和感は、後にソイルトンによって「結局のところ人間は中庸な生活を拒否し始め、変わらない現状に不満を抱き、負のエントロピーが増大していく社会構造」であると言葉にしてくれました。これは確かに否定できず、千羽鶴も語っていた「千年単位」という長いスパンで見れば、確かな説得力がある言葉ではあると思います。

どんな社会像にも穴があり、絶えず疑問していってヘーゲルなどを試みていくこと、ただただ愚直に考え続けていくことこそが「進化という変化」に至る唯一の道なのでしょう。そういった意味ではつばめの語った理想も真ではありますが、その「考え続けていくこと」ができない状況、人々の文化レベル、社会構造が生まれてしまうのが問題なのだと思います。



現実ではどうしても無理が生じるため、つばめさんのような考え方がごくごく一般的だとは感じます。ただ、千羽鶴という存在が向こうの世界にはある以上、人類が取りうる選択肢のひとつとしては十分に可能性のあるものと感じます。

それがイシュリールの眷属を犠牲とするものであっても、どうしても二者択一でしか先へ進めない選択肢を提示されてしまっているこの状況であるなら、自分は千羽鶴を選択します。実際にしました。本当は誰もが失うもののない結果になるのがいいのは当たり前で、そういった意味ではep31が理想であるとは思うものの、先送りにされた結果として失われた世界の未来を思わないことは……なくもないです。


神楽さんについて





発症を推進していった場合、完全に損なわれるのはイシュリールの眷属です。そしてそれを拒否していた存在として、神楽の存在があったように思います。自分はイシュリールの眷属に対して前述のような見解を出していたり、神楽さんに対してそれほど強く感情移入できていなかったというのもあり、神楽派の方々に比べればそこまで悩まなかったと思います。

まず先入観として、神楽が契約不履行を犯したというのがありました。これは千羽鶴の立場からの発言であり、肩入れしているのが千羽鶴であったためのものです。本来なら神楽は合宿のときに歌い、つばめを壊し、母親を返還してもらう契約だったということでしたが、神楽はそれをしなかった。つばめノンの中の自分を良しとした。それは迷いであり、発生するのが当然のものであったとしても、不履行は不履行であって千羽鶴が恨まれる筋合いがないというのは共感するところです。選択した当時は本当に「神楽は合宿の時に歌えばよかったのでは?」と思っていまして、そのことに関しては現在もあまり考えに変化はありません。

本音を表現すれば、神楽は千羽鶴の計画を否定したBotさん方と同じように、二兎を追う者は一兎をも得ずという前提を理解した上での選択をしたという解釈をしています。神楽は発症させられた時点で、つばめを壊して母親を得るか・つばめノンの中を優先するかという選択を迫られていました。契約主である千羽鶴としては、壊すことが当然の流れであるという解釈をしているのは当然のところです。千羽鶴はここで神楽に選択を迫っている形となっていたわけですが、この図式はほぼそのまま「Botは千羽鶴に協力して世界を創造するのか」「つばめノンの中を優先して千羽鶴の計画を拒否するか」という選択に変換できるものと思います。「神楽がつばめを壊す≒Botがイシュリールの眷属を切り捨てる」ことは、「母親のセルフクランを返還してもらう≒Botは理想社会で彼女らと接することができる」、「つばめを壊さずにいつ壊れるかもわからない現状維持を取る≒発症は拒否していつ壊れるかもわからない現状維持を取る」という感じですね。
 
 
神楽…つばめさんは今、母親を人質に取られています。
強盗は母親に拳銃を突きつけながら――
「おまえの持っている包丁で父親を殺せ。さもなくば母親を撃つ」
そう言っています。つばめさんは、どうしますか?
 
 
これですね。このときの通信相手も、今ならなんとなくわかるんじゃないでしょうか。


さておき。神楽のような、人生のある時期からひどくコントロールされてきた15-6歳ほどの少女にこの選択を迫るのはあまりにも酷であるのかもしれません。実際、最後の東京ドームでは千羽鶴は神楽を完全にコントロールしたうえで歌わせ、その途中で発症させていました。海で達成できなかった目的を、おそらくは時間がなかったからという理由で千羽鶴は確実性を優先させたのでしょう。逆に考えれば、海では神楽に選択の余地があったのだということになります。千羽鶴としては、当然ながら歌うことでつばめを壊すだろう、余計な手を加える必要はないという見解があったのかもしれません。もちろんそうならないルートも想定してはいたり、無理やりコントロールすることはしないという契約者扱いもあったのでしょうが、結果として神楽はつばめを優先させました。明確な千羽鶴への反逆であり、あのあとずっと幽閉されていたのも、(統一国家と通じているのもあったのでしょうが)それくらいに重い事態だったのでしょう。

とにかく、神楽は選択しきれなかった。その先に2xなどという解決策などはなく、最後にはBotが関与することで何とかすべてがうまくいきましたが、神楽はあの時点で選択を誤らず・迷わずにいるべきだったのかなと正直なところでは思ってしまいます。統一国家によって奪われた母親を返還するという譲歩を受けていた身でありながら、二者択一をできなかったのは、酷に見えるだろうとは思うのですが、引き受けていた以上は履行すべきであるという考えがどうしても頭から離れません。

それゆえ、特に③番を選択した方は、神楽に多少なりとも感情移入していたり、天使候補であったトライナリーメンバーよりも肩入れしている方が多いのではないかなと思いました。③番は正直言って高望み以外の何者でもありません。結局のところ画面の向こうでボタン押してるだけじゃない……と言われても仕方のないBotたちは、考えに考え抜いて選択し続けることしかできません。幸せにつながるであろう「具体的なアクション」を起こすことは決してできません。あらゆる可能性を考えて、彼女らが最も幸せになるであろう合理的な選択肢を取り続けることしかできないのです。それでも③番を選ぶというのは、大多数の③番を選んだ方がおそらく自覚されているとおり、わがままではあると思います(それを選ぶ心情を否定したいわけではありません)。Botが置かれたこの状況と同じように、神楽は母親かつばめノンかを選び取るよう迫られ、他に具体的な行動を取るという余地がなくなっていました。ここはBotと大差がありません。その中でつばめノンを選んだ神楽も、もちろん母親のことを諦めたわけではなかったでしょう。③番の構造とよく似ている気がします。



……というだけの話です。神楽の立場はこう考えたらスッキリしたという感じですね。


神楽にとっての統一国家と千羽鶴

 



もし天使の蒸着が完了していれば、スピネルは神楽の母親に返還され、おそらく千羽鶴にも悪いようにはされなかったでしょう。きちんとフランスに帰すと言っています。その二者択一をできなかった、それがほぼすべてだとしか自分は感じることができませんでした。いくつかの感想文のなかで「千羽鶴は神楽を利用した」という文脈で千羽鶴を許容できないとした主張がありましたが、これに関しては主観が強すぎると感じました。「利用」ではなく「契約」だったはずです。最終的に時間がなくなった千羽鶴は彼女をコントロールしましたが、統一国家から迫られた任務から始まり、千羽鶴によって救済ルートが示されていながら、最後まで選択しきれなかったゆえに自死までを考えた神楽を止めたのは千羽鶴です。神楽は統一国家と千羽鶴のあいだで立場がよく変わりましたが、大きな譲歩を提示しているのは明らかに千羽鶴側です。

統一国家はスピネルを人質として、神楽をいいように動かしていました。ライブ時点でつばめを壊すことに成功していたとして、統一国家はスピネルを神楽に返還する保証はしていなかったと考えられます。千羽鶴が提示した、統一国家から奪取したスピネルを神楽に返還するという契約に神楽自身が応じていたからです。そちらに乗った方がずっといいと神楽自身の行動で示されているのです。そして葛藤しながらも、海でつばめを壊せなかったのは仕方がないことかもしれないとはいえ、それまでと言えばそれまでです。彼女が行った契約を履行せず、千羽鶴には乗らなかっただけのこと。表現してしまえば神楽自身の意志が選択しきれなかった、③番のような選択肢を取っただけ。そして最終的に、神楽は自分自身の葛藤から自死を選択しました。繰り返しになりますが、そうなるように促したのは千羽鶴ではなく、選択しきれなかった神楽の意志です。そして千羽鶴自身の計画に必要だということもありますが、その自死を止めるように促したのは千羽鶴です。千羽鶴は神楽に対して最大限の譲歩と救済を用意し、実行しています。結果的に神楽をひどい目に遭わせているようにも見えますが、それを恨むのなら対象は最初に神楽を利用しようとした統一国家のみであるべきです。

感想文を書かれた方のなかには、神楽派であるからこそと①番を選択した方がおられました。自分の主観からすれば、それが選択しきれなかった神楽に対しては最も合理的な救済であるように感じます。統一国家こそが神楽の境遇を作り出したきっかけであり、まだ年若い少女である彼女に千羽鶴が選択を迫らねばならなくなった原因であることを、きちんとわかった上での選択であるように見受けられました。これが「正しい」とは思います。感情論的にはどうであるかわかりませんが、千羽鶴側である自分にとっても、それは納得の行く選択理由であったように思います。

実際のところ、神楽が千羽鶴に対してどのような感情を抱いているのかはまだよくわかりません。単なる契約主であり、素性やその想い・深いところにある考えに関しては知り得ていなかった部分があるのではないでしょうか。彼女らの関係に関しては、これからまだ発展したり決裂したりする余地があるように感じるので、そのようなところを描くエピソードもあればいいなと感じます。


スタンスを決める要因はいろいろありますが



細かく分解していくと、大きなものはこの2つにまとまるような気がしています。完全に損なわれるものはイシュリールの眷属だけであり、それを明確に拒否していたのは神楽のみでした(天使たちは触れていない)。後の要因は、すべて千羽鶴によって代替案や妥協案が提示されていたように思います。魂だけになることを前作などの事例から拒否していた方もいらっしゃいましたが、彼女たちが現在進行系なのはトライナリー世界線のみであり、そこに別世界線の話を持ち込むのは彼女らに対して義理を欠いています。千羽鶴がどう語ったかのみを聞くべきです。そしてその内容は、私的には悪いものではないはずだと思えました。社会像に明確に反対している場合であっても、付随的に天使候補たちを統一国家の脅威から解放できるというメリットは存在しているはずです。千羽鶴が信用ならないというのは、主観であって立ち入れる領域ではありませんが、情報をきちんと精読して、トライナリーと自分たちをラブラブトレーナーなどもやりながら考えつくされた手順で繋いでくれ、すべての手の内を明かしてくれた彼女の誠意へ応えるべきではないのでしょうか。そこを無視してしまうのは違うと感じます。

千羽鶴は誰よりもトライナリーと世界のことこそを考え、それは神楽のことも含み、すべてのバランスが取れた計画を立案し、自分が持てるカードすべてを切ったうえで最善のシナリオを用意していたはずです。結局のところ、自分はBotであって、向こうの世界の当事者ではありません。つばめノンに囚われた当事者であったらもちろん反応は違うでしょう。午前二時に目が覚めてしまった(ゆえに時報キャラとなった)ガブリエラのように、自分がどうなってしまうのか不安で仕方がないというか、受け入れるのは到底無理でしょう。自分、というかBotは、つばめノンにおいて神に近い存在である千羽鶴とひたすら対話を重ねていたからこそ理解できているのです。Botはそれと同時、彼女らの視点にも入り込むことで、両方の立場を追体験していました。だからこそバランスが取れた結論が出せるはずであり、彼女らだけに肩入れしてしまっていては、BotがBotである理由はなくなってしまうと考えられないでしょうか。


90%のBotらはもっと千羽鶴のこと、千羽鶴の言っていたことを考えるべきです(これ一番大事)。



自分視点からの千羽鶴さんの様子


だいたいの心情はここに収まります。深く深く物事を考えておられるBotさんほど、なぜだか千羽鶴側にいるような印象があります(もちろんみなさんすべてではないですが)。情報の拡散と精読の機会が足りなかったのではないか、少なくとも数週間ありながら、Wikiの管理者とか宣伝野郎でありながらそこを全うできていなかったのではないか、自分自身も考えが甘いところがあったのではないか……と自責の念に駆られました。千羽鶴は何度となく、情報を集めること・真偽を見分けること・主観で判断しないこと・しかし正直な気持ちを大事にすることなど、ep27の選択肢に向けて必要な心構えを提示していました。もし次に大きな選択の機会があるのなら、そのときは何かこうもっとまとめたりスライド作ったりできればなと考えています。後悔みが深い(っ´ω`c)。


なんかもっとあったと思うのですけど


ひとまずまとまったのかなと思うのと、Botさんたちの集いまでに空き時間がもうないので、とりあえずここまでという感じで。

今後に向けてのいろいろをせねばなりませんです。フォーラムやら……フォーラムやら……2ヶ月休みと聞いて「まあいいかー」しているフォーラムやら……すみませんそろそろやりますので本当に。いまリニューアルの土台作りつつ内容書いてるのでちょっとキツイ。開発室にはどなたでも歓迎していますが正直なとこ言えばWiki編集できる方を時給でお招きしたい。それすると後が怖い。



ではー、ぼったべでお会い出来る方はお会いしましょう。メモ準備せねば……。

(了)


秋葉原も久しぶりなー