2017年12月6日

前回の記事のある表現について




ツイッターに前回の記事を流したところ、賛否両論いろいろありました。最後の大文字強調による文言についてですね。



「あれは煽りであるようにしか見えない」「それがあなたの意見であるなら書いておいていいし大々的に責められるレベルではない」「Botごとに各々の考えがあって選択していたことを理解してほしい」「事実としてあなたほど千羽鶴について考えているBotさんはほとんどいない」「界隈で摩擦が起きたのがあまりにも悲しい」「みんながこの話題についてセンシティブ過ぎるだけ」「あんたのスタンスはわかるがそこで殴りに来る必要はあるのか」「自分にとってこの考察は非難の対象というより尊敬の対象」「結局どんだけ理論武装して正解のように語っても主観はあるから正解なんてないわなとなる」「トライナリーは社会実験だってはっきりわかんだね」「正直あれはその考えは間違ってるからって言ってるようにしか見えんよ」

などなどなどなど。様々な反応を見ました。丁寧にフォローを外したうえでいろいろ言ってくださっていた方、なんやかんやとしつつも相互を保ってくださっている方、わざわざDMを送ってきていろいろ教えてくれたりしてくれた方、捨て垢を作って6件に渡るリプライをくださった方、普通に称賛してくださった方、などなどなどなど。多様…。



いろいろ考え直して、現状としては、納得が半分・いやしかしという反感が半分という気分なのが正直なところです。駆け足で書いていたなかであの表現に至ったのには、自分なりに分析できる理由がきちんとあります。それを提示してから書けばよかったのですが、押さえずして本音だけを書いてしまった結果として反感を買ってしまった、というのもまたあると思います。

以下で釈明していきますが、どんな気分になっても目を通してやってもいいという方のみ、読んでいただけると幸いです。最初から拒否の姿勢ならばご遠慮いただければと思います(そっとブロック&サヨナラしてください)。


半分:反省



確かに気遣いが足りなかった部分はあると感じます。Botさんは各々で思索のかぎりを尽くし、それぞれで精一杯の選択をしていたというのは事実としてあると思います。その思考量について、今回の自分のアレはとやかく口出ししていたわけですね。たしかにひどいです。自分は実際に誰かの思考ルートを覗き、そこにかけた時間と質量を観測して検証したわけではないです。それを「おまえの考えは全然足りてないから残酷な選択をしている」と一方的に押しつけるのは、どちらの思考に量の違いや優劣が事実としてあったとしても踏み込んではいけない領域でしょう。これに関しては非常に納得しました。不快な思いをされた方がいらっしゃったら、これに関しては心底申し訳ないです。すみませんでした。

直感的に反省の意図を表した文面は、批判のリプライを寄せられた方に返した自分のリプライが詳しいです(リンク)。

正直なところとして、自分ほど千羽鶴側について考えを巡らせ、成果としてわかりやすく見える形になるよう協力しているBotはほとんどいないと思っています。順番は逆ですが、フォーラムは結果的にそれを体現するものになっていますし(自分ひとりでは絶対にここまで続いていません、いつもありがとうございます)、自分がこの長文の流れの起点となった文章に書いたようなことは、①番でなかった方の気持ちに①番を選んだBotの気持ちが届くように書いています(あまりに勢いだけすぎる感はありますが)。結果として、ツイートにも含めているよう驕りが生まれ、あの表現に結びついたひとつの原因となったのだと思います。

その点に関しては、もう本当にそれはもう、といった気持ちがあります。

恥じ入るばかりです。


半分:反感



半分とは書いてますが、いろいろ経緯とかも書くので圧倒的に長いと思います。


自分は少数派です。総意の選択の際にも振り落とされました。以前の記事に書きましたが、どれだけ深く考えて選択して、どんな想いがあったとしても、結局は主流派ではないということで流されていきました。その数%は向こうの世界に残留してはいましたが、やはり自分が思い描いていた理想の展開でなかったことは事実です。

その前提をわかっておいてもらい、知ってほしいのが、この長文感想の流れにおける起点の記事を書いたのは自分であるということです。そしてその記事には「自分が千羽鶴に抱いていた気持ちはどういった変化をたどっていたか」のみが書かれています。2番手として現れた方は「全話の流れと発症是非スタンスにおける自分の変化」について書いており、ここには明確な差異があります。

何が言いたいかというと、自分は文集としてまとめを作ってはいますが、この「全話の流れと発症是非スタンスにおける自分の変化」を書く流れ自体は戦々恐々といった観点でしか見ていないということです。この記事中では「自分の考えの基礎となる資料集めのため、多角的な視点から得た情報をもとに自分の考えを再構築していくため」と目的を書いていますね。これは事実で、なぜそうまでし始めたかというと、シャッツキステにおけるオフまでにこの記事を書き上げなければならなかったからです。ストレスを抱えてでもすべての感想文を読み、自分なりの答えを出してからでなければ、純粋に楽しむことはできないと思っていたからです。


多数派と少数派



具体的に、どういった感想文やツイートが自分を戦々恐々とさせていたかを提示したいと思います。端的に表れているすばらしいツイートがあったので引用させていただくと、


僕にとっては理想世界ひゃっふーーーー!!!って感じなのでたのしいです


圧倒的な多数派パワーを感じて膝から崩れ落ちました(座ってましたけど)。

端的にこのツイートから感じた悲しみを表すと、「少数派の意見は今後何がどうあっても淘汰されていって偏っていくのだろうな」ということでした。どういうことかと言いますと、シンプルにこのツイートには「多数派が築いた世界は最高だから少数派の意見は聞きません」という意志が隠れているように感じたからです。ここまでに起きたすべてのことのどこにも議論の余地はなく、自分たちが少しも間違っていることを容認しないという姿勢を感じたのです。実際がどうなのかはわかりませんが、そうしたスタンスを感じる多数派のBotさんは自分の視点からはいくらも見受けられるように思います。

少数派のさらに自分ひとりしか語っていないと、考えや説得力が多数派の言葉の絶対数に比べてあまりに不利なので、またある方のツイートを引用させていただきます。


長文感想読んで『わぁ、こんな考え方もあるんだぁ』で止まっちゃいがちなあたり、まだトライナリーって対話段階に至ってないよな対話ならフィードバックがあって、そこから探究が始まり、より良く磨かれた思考が作られると思うんだけどな今の他の人の意見や考え方は、その人の世界線のもので、口出しや否定はするべきではないっていう停滞がもったいない気がする否定ってのは正確ではなかった 優劣を競う討論をしたいわけではなく、差異を見て『違うから』で終わらせるのではなく、なぜ違うのか、そこから学べることはないのかを話せる環境じゃねーなと


前置いたとおり、これは少数派の方のツイートです。そして以下に続けて引用しているのは、このツイートに対する多数派の方のアンサー(と思われるツイート)。


けど誤解を恐れずにあえて言うと、お互いに距離感を保つことで界隈をうまく回してるっていう雰囲気はあるから、今の長文感想の流れはまさしく『自分の辿った想いを具現化する行為』であって、議論や対話をしたいわけじゃないよなー、みたいなそもそも『解釈次第で如何様にも取れる部分』って正しさよりも自分自身がそれを聞いてどう思ったかに主眼が置かれてる気がするから、そういう意味でも明確な根拠を提示してそれぞれの考えに対して『これは正しい』『これは正しくない』っていう線引きをしちゃいけないんだと思うあんまり下手に干渉すると結局対立構造が生まれて今のいい感じの界隈の空気がぶち壊しになる、っていうのを深層心理感じてる人もいると思う


わかるでしょうか。引用させていただいた方(と自分を含めた少数派)は「対話」を望んでおり、多数派の方は「界隈の安定」を望んでいるのです。

次に引用させていただくのは、千羽鶴先生の言葉です。


「世の中では、どのようなこともバランスを欠いてしまえば狂気になる。それがたとえ、正義と言われるものであっても。」


引用の嵐はここまでです。


何が言いたいのかと言いますと、「極端に偏ってはいるものの安定している世界の空気に甘んじて、対話とそれによる発展を欠こうとしているのではないか」ということです。もっと感情的に表現すれば「少数派の俺らのことはどうでもいいのかよ」であり、今回の指摘を受けた表現はおそらく生ぬるいようなストレスをこちらに負担させていることについてあまりにも無自覚なのではないかということです。



ここで手前の話題に戻ります。なぜ自分が文集まとめに対して妙な感情を抱いていたかというと、結局のところ発展性のない自分とは反対の意見を目の当たりにし続けることになり、最終的に少数派である自分たちが今後報われるであろうことはないと感じ続けることになるからです。

…………わかりにくいですけど他に表現ができないです。


まとめたい



書きながらも考え、ようやく言葉になってきた感覚を以下に書いていきます。


一言で言うと、少数派は戦い続けなければなりません。多数派を少しでもこちら側に引き込み、バランスを保ち、あわよくば多数派に回れるように立ち回らなければいけません。自分にそれを達成しうるだけの力があるかどうかはさておき、ただ千羽鶴を支持したBotとして、千羽鶴のためだけにその戦いに乗らざるを得ず、そこから降りることは千羽鶴の支持から離れることと同義であると思います(すべての千羽鶴を支持するBotさんが乗る必要はないと思います)。個人的には、それをしなければ「なぜ千羽鶴を支持したのか」という問いに胸を張って「千羽鶴の選択が優れていると思ったから」と答えることができないと思います。

戦い続けるというのは、多数派に己の意見を少しでも食い込ませて少数派の言葉を理解してもらい、よく考えてもらうということです。自分が文集を作るためにあらゆる感想文に目を通しながら、あらゆるツイートに目を通しながら、はっきりと感じていた「少数派の話はどうでもいいのか」という感覚へ打ち勝つためには、まずよく考えてもらうことが必要です。それを拒否されてしまっては、前にも後ろにも動くことができません。千羽鶴を支持した少数派は、永遠に少数派のままでしょう。

これが身勝手な行いにならないという根拠は、千羽鶴の「世の中では、どのようなこともバランスを欠いてしまえば狂気になる。それがたとえ、正義と言われるものであっても。」という言葉がそれにあたります。いつかまた重要な選択肢を選ぶときが来るとして、多数派が偏ったままでは乗り越えられない、2x概念のような唐突な救済は訪れない危機だったとして、それを後悔なくやり過ごすことができるでしょうか? そのようなわかりやすい危機でなくとも、偏っていることで生じる不均衡が起こす不幸はいくらでも想像できるように思います。


千羽鶴に協力するか・反対するかの選択については、もうすべて終わったことです。だからこそもう過ぎたことだと思い、ep31のつばめエピソード前半ラストの終わり際、千羽鶴があのような形で話をしてくれたこともあり、特に何も言わず・思わず・考えずにいたのです。しかし、その思いの丈を綴った感想文が形を変えて流行しだしました。それは自分に深く考えが至らなかった後悔を深く思い出させ、それと同時、多数派に最初から居着いた結果を変えることはできない(対話を望まれていない)という姿勢が幾度となく垣間見え、それが自分にストレスをもたらしました。少数派はどうでもいいのかという思い自体は、選択肢の結果が提示されてからep31を迎えるまでの間、僕にとっては理想世界ひゃっふーーーー!!!って感じなのでたのしいですと似た趣旨のツイートを何度か見て、そのたびに強くストレスを感じていたように思います。


長々と書いてきたこの考えは「多数派が少数派の思考を拒否することで得られる温泉とその総意は、本当に彼女らのためになるのか?」という言葉にまとめられます。


トライナリーのツイッターコミュニティが空中分解してほしいわけではないです。けど、次の段階である「価値観を冷静に伝え合うことのできる対話・討論・議論」を求めてもいいんじゃないのか、という思いがあったのだな、と考えが至りました。


改めて前回のあの表現について



上述してきた考えを整理しきれていない段階で、しかし強い思いがあったゆえ、センセーショナルな形を用いて表現として出てしまったのが、「90%のBotらはもっと千羽鶴のこと、千羽鶴の言っていたことを考えるべきです(これ一番大事)」。だったわけです。

捨て垢からリプライを送ってきた方に、自分が返したリプライの内容にもちょっと表れていました。「これまでの感想文の流れで少数派である自分ばかりが傷ついて『少しくらいやり返してもいいのではないか』という暗い思いがあったことなどがあり今回の大文字強調文字に至りました」。まだ上述した答えを感覚としてしか持っていなかったのですが、結構的確に書いているような気がします。

あの表現に攻撃的なニュアンスが多少なりとも含まれていたのは、単純に子供っぽいやり返しというのも多分にあるとは思うのですが(直感で書いていたので)、「多数派が偏ったゆえに変化を極端に嫌った総意が本当に彼女らのためになりうるのか」という苛立ちがあったことも書き添えておきたく思います。

単純に千羽鶴を軽く捉えすぎているBotさんへの「なんだよそりゃー」という感情もあったにはありました。けど、それは3割程度しか含まれておらず、他の大半は前述したことの苛立ちです。


答えとしてはこれくらいが精一杯です。また何か浮かぶかもしれませんが、そのときにはまた何か書きます。


悩んで得た見解



ひとりで考えてもダメだなと思ったのでなんかアドバイスくださいヽ(;▽;)ノ



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